南海治乱記・・・香西家に藤井太郎右衛門と云大百姓あり。健なる者百人撰りて持つ大剛の者にて智謀万人に超たり。伊賀守より渡邊の氏を許して親属の縁者とす。此者手より能須谷川と云竊(しのび)の者に三十人の寄子あり。是を西長尾より附置て敵の動静を日々時々に通達す。敵すでに鵜足津を陥たるを聞て北條西庄の城在番の者も香西城へ引退く。敵、西の庄に入て山内源五を城守とし兵衆を数百人入置、国分寺に入と聞ければ太郎右衛門が曰、地の利は兵の助なるに何の方術もなく切所を敵に超させては居ながらにして亡を待のみ也。粉懸或は長谷岡は究竟の詰りなれば此にて一方術をなすべし。本軍は外の者共を我に五百人給らば伏兵を為べし。本軍は其跡に附て北(にぐる)を遂ば必ず勝べし。大軍とても懼べからず、戦は謀に因る者也と云。香西太郎左衛門(大隅守の子)、香西加藤兵衛、其意に同じて太郎右衛門を謀主とす。即ち計て曰、新居宮尾の城には作り旗を立させ榊川に鉄砲三十丁を十丁宛に連て三所に伏せ、後に太郎右衛門、鎗五十本を伏せ其後に久利三郎四郎五百人を三手に作て伏勢とす。然して八月朔日未明に到て兵を伏せ待かくる處に、土佐方、国分寺を立て新名内膳を先導とし伊予の六人衆、讃州西方衆列を遂て押出し端岡のはなを回り来る所を、藤井太郎左衛門足下より起て鉄砲を打懸追立て後陣の兵段々に起て馳向ふ。敵崩て道の外へ溢れ向田の方へなだれ落つ。後陣は先の事を知らずして騒動す。香川三千人を以て山上に上り羽床は麓を回て出来る。太郎右衛門は透間かぞへなれば速に兵を引て新居の奥、大門村に旗を立て変を見る。敵の大軍競進んで充満するを見て軍を潜て赤谷村へ入る。此所は兵百あれば二千三千にても破がたき所なれば敵も攻め来ずゆへに山越をして香西城へ帰る。敵は大谷の城に旗あるを見て大軍我先にと攻寄る。素より謀なれば兵将はなし、夫より東に向て押出す。粉懸一本松の切所に能須谷川二人の外聞を頭として鉄砲三十丁を三所に伏せ鬼無の香西兵庫、原引の守政助兵衛二百余人を本陣として待かけ鉄砲にて打立追崩し大谷村まで追入て引取る。敵方、両所の伏兵に逢て利あらざる故に其日は粉懸の切所超ずして止む。是より一里計東に方て奈良太郎兵衛、山陣を取て手合をなす。彼此遠慮ある故なり。

         翌二日、香川氏相計て新居赤谷の押へに兵を置き、梟山の山腹に旗を立て、敵の有無を跡へ告べしと下知して難なく山を踰て鬼無村に出る。是より村続きは敵の方術も計り難し、唯、川に添て平陸より押入るべし、然ども小山の敵又は村里の小城持ども後を圧ふ事もや有ん、手を分て後拒の兵を用ゆべしと評議する處に、天気くもり大雨ふり出て陣する事能はずして俄に引取り新居郷中の人家に入て盈て居す。土佐衆は国分寺を本陣とせしかば諸人みな国分村へ引取る處に、榊川、初は渡りも易かりしが昏かかりける時分より俄に水増りて人の一長半計に成て人馬多く陥没す。此川は常は小川なれども山高くして険ければ俄水の出る事斯の如し。小山龜塚にお陣したる奈良太郎兵衛尉も其夜山陣成難して山を下り民家に入て雨を止めそれより阿州三好存保へ寄食す。小山には資財を捨て去る。是れ雨に逢て重目増し人馬の力に及ばずゆへ也。海邊には備前地の海賊ども、讃州の乱を聞て船を寄せ乱取りに牛馬まで奪取り防ぐべきに堪へたり。

          三日にして香河の渉も出来て香東の通用も成ぬ。八月四日、西方の兵衆、国分寺を立て東方に向ふ。此時、本津六郎兵衛(植松右近が弟)、敵方見分のために新居に到り神高越をして帰る時、敵の先鋒、早や佐料の古城に来る。本津、即ち城内に通て北門に出る時、土佐の兵、是を見て遁さじと遂来る。北門の橋中を引て有り本津は葦毛の馬四寸に及ぶ太長もの、引かけ飛せければ難なく踰たり。敵も同く飛せけるが、小長の馬にて相及ずして堀の内に没す。本津、馬より飛下り首取て帰る。其跡より敵満々と来れども皆土佐駒の小長ものなれば橋にてつかへ遂来らず。やがて藤尾城の著てかくの旨を申す。各是を聞て手分して其の備をなし、伊勢の馬場、本津口両手の兵将を定て指向はしむる也。 (土佐元親、阿讃二路に出陣の記(後半部);巻之十二)

 

 

(国土地理院航空写真を使用;昭和37年)

 

         天正10年8月1日、長宗我部軍は香西に向かって進攻を開始した。国分寺から東に進むと現在の端岡駅を過ぎたあたり、南の伽藍山と北の梟山(袋山)に挟まれた狭隘な地勢が行く手を阻んでいる。間には本津川が流れ河岸段丘にも富み規模は小さいながら中々要害の地である(上図参照。拡大は画像をクリック)。この複雑な地形を利用して伏兵を設けることを藤井太郎右衛門が進言し、それに香西太郎左衛門(香西大隅守資教の嫡子)、香西加藤兵衛(植松備後守資正の嫡子)らが同調、藤井太郎右衛門、久利三郎四郎が中心となって伏兵や鉄砲を配して待ち受けたのである。一旦はその計が功を奏し、粉懸(衣掛)、一本松などの切所で先鋒を撃退したが香川、羽床の軍勢は次第に押し出して力押しで此処を越えようとした。このあたりは天正7年に羽床資載が香西氏を攻めた際(香西内輪破)、まっすぐ北の勝賀本城に向かって赤谷方面に進軍し敗退した経験もあることから、同氏の献策もあってか東の佐料方面に押し出すことを優先したようである。翌日は赤谷方面から横合いに攻撃されることを警戒しつつ袋山の中腹を経て難なく佐料付近にまで到達したが、そこで大雨の襲来を受け新居まで引き上げて天候の回復を待った。3日には条件も整い、4日に到って遂に土州の先鋒は佐料城にまで達した。葦毛の駿馬で土佐駒勢の追撃を鮮やかに振り払った本津六郎兵衛の注進で、佳清の号令一下、最後の決戦に香西の諸将は戦場に馳せ向かったのである。

最初に伏兵の献策した藤井氏は、縁者の渡邊性を賜ったとあるが、この渡邊は芝山城の海賊衆、渡邊氏のことであろうか?それとも天正2年、三好長治が香西侵攻した際に活躍した「伊賀守同坊に渡邊一阿彌と云ふ者」とある同朋衆のことであろうか?後考のために記しておきたい。

          さらに、この項に奈良太郎兵衛尉元政の消息が記載されているのも貴重。奈良氏は藤目城の戦いで家臣の新目弾正を玉砕させただけに元親に降伏しても容赦される筈もなく、香西氏を頼ったものの状況はすでに絶望的となっている。おまけに雨で家財一式を濡らしてしまい士気はさらに低下、敵前逃亡宜しく単独で三好存保の元へ退去してしまった。それでも直後の中富川の決戦では力の限り奮闘したがあえなく戦死し、細川四天王以来の名門、中讃の奈良氏はここに廃絶したのである。「西讃府志」は「元政二百五十人ヲ三手ニ分チ、物集進士ヲ左右トシ、奮ヒ撃テ戦ヒ死ス。元政ノ子太郎左衛門ハ、元政宇多津ヲ出ル時、マダ幼クアリシカバ、資財ヲアタヘ、大船数艘ニ載セテ、上方ニ退カセツルニ、四国平均ノ後、宇多津ニ帰リ、津郷村ニ逃レ住テ世ヲ終フト云」と嗣子のその後を伝えている。

 

 

 

 

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