南海治乱記・・・天正十年壬午八月五日、西方の敵、佐料の古城に来て先陣の兵、伊勢馬場に押出すと聞しかば、香西伊賀守が陣代、滝宮豊後守、香西太郎左衛門尉(大隅守が一男)二手に分て相向ふ。先づ大手伊勢馬場へは滝宮豊後守一千余人を以て押出す。相従ふ人々は植松帯刀其弟彦太夫、飯沼五郎兵衛、軍使には植松緑之助、真部彌助也。先鋒には久利三郎四郎、仲備中守、遠藤遠江守其子喜太郎、飯田右衛門督、中飯田備中守、下飯田筑城清左衛門尉等也。滝宮豊後守は畿内四国の敵に馴て弓矢功者なれば宵より手分を定め、作山の城に百余人を込め旗正々と立居守しめ、内傳屋敷百余人込て旗少々立て守らしめ、是竹村路の右にあれば横撃のために植松帯刀、植松彦太夫、三百余人を以て宵より行込しむ。旗を偃(ふ)し軍を潜めて屈居し敵、勝に乗て進来る時、凱音を発して横さまに出で突撃すべしと相定む。然して翌五日の早朝に兵衆を出す。其の先鋒、久利三郎四郎、仲備中守、遠藤遠江守、上飯田、中飯田五百余人、其の二陣に滝宮豊後守三百余人を伊勢の馬場に押出す。敵は予州の六人衆五千余人を以て戦を始む。其跡に香川衆土佐衆相継ぐ。予州衆鉄砲上手なれば身方に手負死人多し。敵、大軍を手分して脇道より後へ回り横合に出んとすれども豊後守地利を設て備をなし今池とて三町ばかり池水を左に、当岡村の岸田を右に、当前一筋の路を懸引の場として陣列をなししかば、敵大兵と云へども急に攻撃つ事を得ずして暫く挑戦ひぬ。其内に久利三郎四郎、仲備中守、鉄砲に方て即時に死す。敵方競進て奮撃し我が前兵擾乱して豊後守が手先に崩かかる。其時、是竹村に籠たる植松帯刀、植松彦太夫、是竹萬五郎、諏訪又右衛門、飯沼五郎兵衛三百余兵を以て駆出し敵の左脇より鉄砲を打懸る。敵兵、其の不意に出るを以て拒ぐ事を得ず、一本木の地蔵の前まで崩かかる。豊後守、帯刀、兵を引揚んとする處に敵方の後陣入替てかかり鉄砲師を初む。予州河野流とて鉄砲上手なれば馬上の大将をねらひ打つほどに滝宮豊後守を馬上より打落す。植松彦太夫、股を打れて引退く。飯沼五郎兵衛尉の口を打れて引退く。植松帯刀、大勢に渡合ひ、手勢を下知して相戦ふ。自身鎗を取て敵を敲立て攻入り太刀打して敵を追立て家人十八人一円と成て引退く。其時、備前兼光の刀切先少し打折ぬ。其刀、子孫于今持てり。和平なりて後、太刀打したる兵士、帯刀に対面せんとて来けれども帯刀は舘に在て事を計し故に遇ず。其姓名、予州河野が庶流、曽我部又八郎、腰小旗の紋角切り折敷にゆり三文字と名乗り置く也。さて、総兵は大将討れぬれば力なく敗軍す。軍使、植松縫之助、松の若緑の指物引退ぐ處に、敵早馬を揃へ追かけ言をかくる。緑之助引返し比類なき戦をなし主従八人ともに戦死す。真部彌助は身方の戦死にも搆はず手負ぞ々々と呼て引退く處に、敵長追して来り後陣の兵続ずを見て取て返し鎗にて打合、高名して引退く。彌助心速くして目の利たる擧動幾度もある剛の者也。然して身方の兵卒参差して引退く處に内傳屋敷より旗を押立、百余人段々に立て押出しかば敵方には多兵、又二の師を待て押出すと見て兵を留め敢て襲来せず。其隙に新手の兵百人を後拒として藤尾の城に入る。此の本道は山の根を切通にして其中間に作山と云ふ小城あり。此城に旗立て双へ多兵待かけ居たる気色を見て敵方遠慮し此道より押寄せず。山手を取て上の山に押上る。是、豊後守が師配の宜敷故に少兵を以て多兵を拒ぎ、我が戦死の後と云ども敵、是を憚て逐ず。是を見、是を聞、人々皆感涙を流し豊後守が戦死を惜まずと云ふ事なし。

 

          さて又、搦手、西光寺表へは香西太郎左衛門、一千余人を三手に分つ。先ず天神郭をば宮武六右衛門、松浦清左衛門、山地小内膳、葛西三郎左衛門、秋山四郎兵衛、泉房五郎左衛門、山脇圖書助等三百余人を以て固たり。西光寺前先鋒は佐藤孫七郎(居石五郎兵衛が一男也。後の佐藤掃部頭の舎兄也。立石、伏石、流石を我が邑に築く。故に居石とも云)、松縄手の宮脇弾正、其弟宮脇兵庫、中村の藤井、同所の雑賀、西濱の岡田丹後、坂田の河野、坂田の庄官、高丸の真部、楠川、大田の犬養、一宮大宮司、飯沼、成相、河邊民部五百人を以て先陣とす。其の二陣には香西太郎左衛門、香西縫之助、新居権守、軍使には本津六郎兵衛(植松左近が弟也)、三谷掃部左衛門、五百余人を以て列をなす。然る處に西方の兵将、長尾の国吉三郎兵衛、財田の中之内源兵衛、阿州大西上野介を旗頭として三千余人、西光寺表に指向ふ。其の後軍、雲の如く相発れり。西光寺縄手と云は、左に潮の大溝長さ五町計にして、右は深田の足入也。其中間、幅二間計の土居一筋の道にして殊二町ばかりの間は左右へ相救べき経路もなし。佐藤孫七郎、五百余人に長として一戦を始むる時に香西太郎左衛門謀て曰、香西縫之助、新居権守、軍使三谷掃部左衛門二百余人を以て、釣の浜の間道を経て本津に到り、金臺坊の林木の中より鬨を作て伐懸べしと下知して其身、三百余人を以て旄(さい)を取て進発し、孫七郎が後陣を詰る。敵、進来て相懸りに攻戦ふ。斯る處に本津の回軍、林木の間道より鬨を発て後に出しかば、土佐方、堪へずして敗北す。

 

          孫七郎、太郎左衛門、北(にぐ)るを遂て二町余の土居道を経て本津の此方なる小畑に踏止り勝鬨を揚て引退んとする處に、土佐方二の手、大西上野介、撿使入交孫右衛門(後に蔵人と曰)五百余人を以て真黒に馳来り数珠懸孫兵衛と云ふ大剛の者、一番槍を入る。城兵も二度目の鎗をする者多し。是を小畑の鎗と云ふ。敵、猛勢返し来て我先にと諍戦す。城兵若干討れて孫四郎戦死す。太郎左衛門、六郎兵衛、身方の崩るるを見て馬より飛下り、鎗を取て崩るる身方を敲立て、拙し返せと云ながら郎従二百余人を以て面も振らず突かかる。敵、三千人計勝侈て来る所へ伐入り火を出て攻戦ひ、香西太郎左衛門、本津六郎兵衛、其外勇剛智能の者数百人戦死して小畑の戦破しかば、敵方競進で攻寄る。其折しほは引汐にて西光寺の前干潟となれば即天神郭に取かかる。城兵よく拒守して寄手鉄砲に方り死を致す者其数を知らず。城兵、宮武六右衛門、鉄砲の上手なれば敵数人打落し、敵又乗入る時、鎗を取て後々刀にて数人伐伏せ手を負せて戦死す。近藤藤右衛門も大力の剛の者也。敵、数十人打亡て戦死す。葛西三郎右衛門、松浦清左衛門、秋山四郎兵衛、山路小内膳、山脇圖書助、泉房五郎左衛門等、各大剛の擧動をなし多兵を殺して戦死す。天神郭破れしかば猛勢に切所なく、海川を超て釣の浜に攻上り堀の内の郭に攻入んとす。

 

          然る處に、香川信景が陣より旗を振て矢留と呼はる。是、香川香西世々好を結で互に恵難を救ひ領家を保守する事数回なれば、今度も藤尾城の西の山手、荒神の森を香川家の攻口として三千余人を以て相圍む。佗人の兵を交へず、是は此城、近年の取立にして溝壘も成就せず、山の手を敵に取れては一支も成がたき地なれば、香川氏これを助け我が兵の攻口とし暫く城を持こたへさせ和平の扱を入べき為也。此故に香川家の使者、搦手平賀口より香西加藤兵衛が宅に来て両陣和平の事を伊賀守に通ず。伊賀守より加藤兵衛を遣はして其事を計らしむ。是、去年より香川氏、使者を通じて其旨ある故也。信景の取計に依て香西氏本領、麾下の采地ともに少も相違なく相保て土佐方の軍に加るべき由、盟約をなし和平相済也。夫より土佐方の軍兵、山の手に引上げ陣を取り、戦死の者の眷属ども往来して其首を乞取り其の家々に葬をなす。哀れと云も踈(おろか)也。予州六人衆は土佐方に候して初陣の擧動なれば、伊勢の馬場合戦を眉目として戦の巨細を記し首帳を認て元親に送る。当国西方の諸将も西光寺表の戦を記し首帳を以て元親に達し各其褒賞の書を賜ふ。然るを元親、阿波の国の戦に事繁くして紛失するか、土佐の書記に洩すこそ惜むべき事なれ。

 

         さて又、浦部の守拒は唐人弾正、片山志摩、本津右近、三人奉て中須賀、平賀、釣の浜を警衛す。近郷の凡民子女に至て公文、田所を頭として赤谷の奥に入れ、藤井の渡邊太郎右衛門を遣して是を守しむ。海上は塩飽の宮本、吉田、日比の四宮、直島の高原等、力を合て警固をなす。其始末かくの如し。今度の戦は我が領内に敵を受たる故に諸将みな居所に好士を留て婦女を守しむ。是に由て戦に出る兵士少し。和平調て後、伊賀守悦たる色もなく諸臣を聚て謂て曰、今日の戦は身方少勢なれば歴々の者ども戦死して、我が遺恨止む事なし。今度は勝賀路より敵の後へ兵士を回し夜師を仕かけ長曽我部氏が頸を取って、今日戦死の輩に報謝すべきと思しに、香川殿より扱に依て和平調ぬれば力なし。安陪有政が天文を考るにも今夜の夜戦は身方の吉兆に方れり。長曽我部を撃たざるこそ残多き事なれ。惣じて戦は大将の目の入るものに非ず。我が盲なるに恨事なかれ、各が働きを能せば是れ我が明目也。大将は謀を帷幄の中に運し勝事を千里の外に決すとあれば、我が視る事の入るには非ず、各が耳目こそ我が耳目なれと語れば聞者みな涙を流し、あつぱれ先祖累世の継来れる血脉也、ただの人には非ず、眼を明て参じた者かなと云合ける。伊賀守又曰、人の死生は定たる事也。とかく死すべき命ならば戦場に出て朋傍輩と肩を雙へ国家の用に立て死ん、これ武士の幸なれ、老極して何の功もなく死せんは口惜かるべき次第也。今日、伊勢の馬場、西光寺の前の戦に滝宮豊後守、新居太郎左衛門(居所を以て之云)が擧動は敵身方の知る處なれば、四国の中に隠なし、後々は天下に名を顕し世々の記籍にも遺べし、我も今日を限にして両将諸雄と同死せんと思しに和平事成ぬる上は力なし。今日戦死の家には日を追て厚く報謝すべし、寄手も今夜は退参せず、身方も夜守の備を失ふ事なかれと言語して扱の事を悦喜したる気色更になし。聞者、其勇に感ず。

         伊賀守の内の政所は、備州日比瀬戸、四宮隠岐守が女子也。容貌美き聞あつて対て内室に備ふ。合戦の日、白綾の単衣を著し白綾の鉢巻して奴僕数人に粥を荷擔し、仕女数人に器を持せ、天神郭に来り守拒の兵に向て謂て曰、汝たち能く聞玉へ、当家の大事、今日に在り。各譜代の郎従として君臣世々の榮をなす。今日の死を厭ふ事なかれ。死を必とせば勝て又榮べし、菅相公の守り何ぞ莫んや、勇むべし、勤べしとて自ら柄杓を取て粥を酌み諸卒に進む。諸卒感じて涙を流さずと云事なし。此の書記は、其時、成資が祖母、少女にして内政所の室にあり。植松左衛門尉の児にして伊賀守の傍にあり。此の二人が説と真部彌助入道林禿が作たる舞の本と引合、間々又、老父夫婦が語傳る所の要を撮て之を記す也。 (香西伊勢馬場並に西光寺表合戦の記:巻之十二)

 

 

 

由佐長曽我部合戦記・・天正十三年十月十八日、香西伊賀守、諸士ニ向テ申ケルハ、元親已ニ由佐ヲ攻テ和談シ、弟小三郎ニ由佐勢ヲ指添へ三谷ヲ責ル處ニ、彌七軍利無クシテ、一昨夜備前方マデ立退ヌ。其身ハ香川ト一ツニ成テ六千余騎ニテ、元親ハ新居に陣シ、香川ハ市ニ陣取テ、篝炬領ニ民屋ヲ破却シ、財宝ヲ入取シ、叫喚サラニ断絶ナシ。トハ云ナガラ諸方ノ責口堅クシテ、後レヲトラザル様ニ相勤ムベシトテ、先本丸ニハ唐人弾正・片山志摩・植松加藤兵衛、冑を混ジテ五十人扣タリ。二ノ丸ニハ香西縫殿介・植松大隅二百人、天神曲輪ニハ尾比賀元八郎右衛門・近藤藤右衛門二百騎ニテ堅ケリ。浜ノ手ハ備前日比ノ四宮右兵衛、備前ガ城ニハ久利ヲ大将ニテ、能次・谷川・其外ノ夜討ニ馴タル若侍百人計リ籠ケル。去程ニ同キ十月十九日、長曽我部宮内少輔元親・小三郎、既ニ三谷ヲ討テ、近日坂下川原ヘ向ヨシ。然ハ当手モサノミ悠々トゾ一合戦モセデアランハ、士卒ノ心緩怠ニ成テ、アシカルベシトテ打立ントス。彌二兵衛申ケルハ、此日ノ大雨ニ榊川ノ水暴テ、白浪岸ヲ敲キ渡ルベキヤウモナシ。此川ハ白峯山ノ谷合ヨリ流出川ナレバ、大雨ノ後一日二日ハ古ヨリ渡ナシ。流レ近キ小川ナレバ、明日ハ干落申すベシト案内者共申シ候間、明日ニ遊バサレ候カシト云ケレバ、元親申ケルハ、是程ノ小川、此ノ大軍ニテ渡サンニ、何ノ子細ノアルベキゾ。騎馬武者ハ皆馬ヨリ下リ鞍輪ニ取付川上ヲ渡シ、歩行武者ハ下を渡セト下知シテ、三千五百余騎轡ヲ竝テ打入、馬ニ鼻嵐ヲ吹セテ渡ケルガ、鬼無ヨリ押テ、佐領ノ在所ヘ懸出タリ。久武・香川モ千五百騎ニテ、八幡山ノ東ヨリ浜手へ付テ押渡ル。是竹村ニ備タル久利・成相・飯間・筑城・飯田・宮脇ノ者共、騎馬・雑兵二百人計足軽ヲ前ニ立テ、敵懸ラバ横矢ヲ入ント待カケタリ。

          土佐勢ノ先陣桑名彌次兵衛ガ一千余騎、鬨ノ声ヲ揚ト等ク、久利ガ群テ扣タル浜中へ閑々ト打テ蒐ル。鉄砲少々打掛ル程コソアレ、打物ニ成テ入ミダレテ戦ケル。浜手ニ備ヘタル日比ノ四宮、先手ノ勢ヲ打散サント、馬ノ鼻ヲ汰ヘテ黒煙ヲ立テゾ懸タリケル。久武・香川ガ千五百両鎧ヲ合テ、四宮ガ出水ノ如ク打テ係ル真先ヲ、一文字ニ横切テ一人モ余サント巻リ立マクリ立、山川ヲ傾ケ天地ヲ動シ、叫喚テ責戦フ。大勢ニ揉立ラレ、何カハ一怺モ怺ルベキ、久利・四宮ガ両勢、捨鞭を打テゾ引ニケル。桑名・久武一陣ニ進テ、蓬シ返セト恥シメテ、追立追立責ケル間、後レテ引兵ハ、或ハ討レ或ハ生け捕レテヌ。残少ニ成テ這々城エゾ引取ケル。 (香西伊賀守城エ寄ル事)  

    

 

 

    

(左図の黒線は長宗我部軍、赤線は香西軍。右図は国土地理院航空写真(昭和37年)を使用)

 

         香西戦の文章は長いので、ここで簡単にその推移をまとめてみよう。上図の航空写真と合戦図(左)を交互に眺めていただくとよい。(拡大は画像をクリック)

       @:土州軍は南より侵入。滝宮豊後守(一千人)は作山城(百人)と内傳屋敷(百人)に兵を入れ、是竹村に伏兵(三百人)を隠し、伊勢馬場にて交戦。先鋒の久利三郎四郎、仲備中守、鉄砲に当たり戦死。

       A:香西軍が後方の滝宮豊後守軍に崩れる所を、是竹村の植松帯刀、同彦太夫、是竹萬五郎、諏訪又右衛門、飯沼五郎兵衛らが横合いから鉄砲を仕懸け、土佐軍は一本木地蔵前まで崩れかかる。

       B:土州軍は一本木まで崩れるが、すぐに後陣と入れ替わり鉄砲で馬上の滝宮豊後守は狙い撃ちされて戦死。軍使、香西緑之助も戦死。植松彦太夫、股を撃たれ負傷。植松帯刀、真部彌助は交戦しながら藤尾城まで引き退く。土州軍はそのまま作山城に向かって突進しようとしたが、作山城が盛んに幟を立てて意気軒昂な様子をみて、是竹村から浦山に沿って今池方面に方向を転じた。

       C:搦手の土州軍は国吉三郎兵衛、中之内源兵衛、大西上野介を旗頭に本津方面から侵入。香西軍は本軍千三百人を三手に分け、天神郭を宮武六右衛門、松浦清左衛門ら三百余人で固める。

       D:西光寺表の先鋒は佐藤孫七郎、松縄手の宮脇弾正、其弟宮脇兵庫ら五百人を以て先陣とし、後陣には香西太郎左衛門、香西縫之助、新居権守、軍使に本津六郎兵衛、三谷掃部左衛門、五百余人を以て隊列をなし本津に向かって進軍。

       E:後陣の内、香西縫之助、新居権守、軍使三谷掃部左衛門ら二百余人を浜側の金臺坊(金台寺)に迂回させて横合いから土州軍を攻撃、土州軍は小畑まで退く。

       F:小畑では、土州二陣の大西上野介、入交孫右衛門らの軍勢(五百人)が押し出し、佐藤孫七郎が戦死。その後の西光寺表にかけての混戦で香西太郎左衛門、本津六郎兵衛ほか数百人が戦死す。

       G:土州軍はそのまま西光寺前に侵入、折からの引潮で難なく天神川を渡って天神郭に攻めかかる。宮武六右衛門、近藤藤右衛門、葛西三郎右衛門、松浦清左衛門、秋山四郎兵衛、山路小内膳、山脇圖書助、泉房五郎左衛門らが奮戦の末に戦死す。

       H:土州軍が藤尾城本丸を囲んだ頃合いを見て、是竹村から山沿いに進んだ香川軍が双方に矢留をする。藤尾城は未完成で、西側の備えは特に弱いため、ここを土州軍に抑えられないよう香川氏単独の三千の兵で固めていた。事前に香西氏との申し合わせもあり、和平交渉は円滑に進む。これを以て香西攻めは止戦となる。

       I:平賀などの浜浦は唐人弾正、片山志摩、本津右近が、海上は塩飽の宮本、吉田、日比の四宮、直島の高原氏などの水軍衆が警固にあたったが、さしたる戦闘はなかった模様である。

       J:「由佐長曽我部合戦記」には、香川氏と四宮氏の戦闘が記載されている。当記録は決戦日時や両陣の諸将に関して誤謬が多く余り信用はできないが、香川氏としても大将の軍勢が全く戦闘をせずに和議には持ち込みにくいので、或いは今池付近で小競り合い程度の戦いがあったのかもしれない。

 

 

        讃岐最大の激戦となった香西近辺も現在は高松のベッドタウン化や再開発が進み、往年の戦場は殆どが宅地の下に埋もれている。登場する建造物などもかなりの変遷があり、香西寺は当時、西光寺の東側にあった。この戦闘で灰燼に帰し江戸時代になって現在の地に再建されたものである。西光寺前の天神川(舟入川、愛染川とも)も元々は寺の西に流れていて天神郭の堀の役割を果たしたが、現在は改修されて寺の東を流れている。作山城も、昭和37年の航空写真では明瞭な木立のある小山を見るも、今は宅地となって昔日の面影はない。浜側にあった天台坊(天台寺)や愛染坊も、この合戦で焼失しそのまま廃寺となった。肝心の合戦記録も香川氏や長宗我部氏が滅亡したこともあって「南海治乱記」を除いては、今日ほとんど伝えられていない。讃岐最大の激戦地と言えども五百年の歳月の流れは果たしてかくの如し、まさに「兵が夢の跡」である。

 

 

 

 

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