元親記・・・・・右は香宗我部親泰、計略を以て、彼の地菅平右衛門へ繰状を付けらるる様は、凡そ聞及ばるべく候。早紀州の雑賀、元親の旗下へ属し、この前三好合戦の刻も、人数二千余にて阿波勝瑞へ馳渡し忠功を励ます。阿讃両国の儀は残る所なく静謐す。この上は連々その他への手遣あるべき事の程は有間敷候。哀れその内に忠節仕られ候へかし。如何様にも御存分のまま、某御取合申すべしと入魂せられければ、平右衛門早速同心す。既に親泰人数差渡され、平右衛門手合にて須本の城を取りたり。この註進を聞届け、追々人数を打渡し、親泰自身渡海すべきと、早催さるる処、折節その後、難風打続き、暫船の通ひしな。その内に淡州一国催して城を取返す。平右衛門一類は、それより阿州牛岐へ取込み、親泰の与力に付き、知行過分に給はり居り候ひき。 (淡州須本の城を取りたる事)
土佐物語・・・・香宗我部安芸守親泰は、如何にもして他国を討取り、忠功に備へんと、四方をぞ窺ひける。淡州の菅某とて、勇智兼備の士あり。彼を味方に引入れ、野口備前守が居城当国須本の城を攻取るべしと案じ済し、羽檄を飛ばして、事の由を談じける。菅一議にも及ばず同意して、急ぎ人数を差越し給へ、須本の案内仕るべしとぞ申しける。親泰喜び、究竟の兵を勝り立り、淡州へ差遣す。菅何某手を合せ、須本の城へ押寄せたり。城にも思ひも寄らず、これはこれはと驚き騒ぎ、防ぐ兵一人もなく、我れ先にと逃行きしかば、即時に城を乗捕り、悦びの鬨ども挙げにけり。此の由阿波へ注進しければ、親泰大きに悦び、追々人数を差向け、其の身も渡海せんと、勢を揃へ舟用意して、既に打立たんとしけれども、折節風烈しく浪荒るること、日を経て止まず。名におふ鳴渡の渡なれば、渡るべきやうなかりけり。親泰身悶すけれども叶はず、数日を経るほどに、肥前守当国の勢を催し、須本の城へ押寄せ、揉みに捫んで攻めたりける。素より案内は知つたり、前後より攻入りければ、城中には続く味方はなし、終に城を取返され、菅何某、辛き命を遁れて阿州へ渡り、親泰の与力にぞ居たりける。 (巻第十三;須本へ計策の事)
菅平右衛門達長(⇒❡)は淡路十人衆と呼ばれる淡路海賊衆の首領のひとりである。三好家凋落の後、安宅信康(⇒❡)が信長に付いたのに対し、達長は毛利方で活躍し石山合戦の折には毛利輝元の援軍を得て岩屋城主となった。しかし、秀吉が淡路に来攻するとあえなく落城し暫く潜伏した。そうこうする内に本能寺の変が勃発し情勢が混乱状態になると、今度は明智光秀に加担し秀吉配下の仙石秀久が守る洲本城を攻撃し占領した。その時期は変から程無い時期、“山崎の戦い”以前という説もある(⇒❡)。実際、この時期に明石海峡を一望する岩屋城が敵に渡ったのでは、秀吉の“中国大返し”も横合いを入れられて危ういものとなる。一方、中富川の合戦に勝利した香宗我部親泰は次の鉾先を淡路に向けていたこともあって、「元親記」の書き方では親泰が達長に洲本占領を要請した形となっている。そうすると、1週間ばかりで瞬殺された光秀に加担しそれに親泰と達長が即座に呼応したのは、前もってそうするよう光秀から要請があったのかもしれない。これは秀吉にとっては元親と光秀との談合を証明する唯一の実行行為でもある訳で、後々の四国征討に至る長宗我部氏の分の悪さはこうした所からすでに始まっていたのだろう。洲本はほどなく秀吉方の淡路十人衆である広田蔵之丞に奪還され達長は四国に渡り親泰の与力となった。元親にとっても畿内への橋渡しとなる貴重な水軍の頭領であるから、結構、高禄で召し抱えられたようだ。
達長は続く小牧・長久手の戦いでは実際に紀伊水道を渡って和泉に上陸、秀吉方の中村一氏に属する宇多大津城を根来雑賀衆とともに攻撃している。「和泉戦記」(中井保著;泉州情報社)には「これは延宝八(1680)年に刊行した国枝清軒『武辺咄聞書』に書いてあることだが、大津に攻めて来たのは淡路の菅三郎兵衛と同平右衛門らで、四国の長曽我部元親に属していた。元親が自身で出陣していたかどうかは不明だが、元親の使者が堺に出向いて鉄砲と兵粮を買い調えさした事実はある。」と記載されている。3月18日に大規模な攻勢をかけたが、黒田長政、小西行長、生駒一正らの救援で敗退した。これもまたこの天下戦に際し、元親が秀吉に反抗する意志を明らかにした唯一つの実行行為であり、当然、秀吉の逆鱗に触れてもおかしくないのだが、続く四国征討の後も秀吉の元で水軍を率いて活躍し伊予で一万石以上の所領を与えられたというから、よほど有能な海賊大将か秀吉好みの魅力的な人物だったのだろう。敵方の淡路を通り越して紀伊水道を単独で横断し和泉に上陸を敢行したことを思えば、「敵ながら天晴れ!」と豪放と大胆を好む秀吉をさぞ喜ばせたに違いない。
関ヶ原の戦いではこれまた西軍に属したが死罪や無禄となることなく藤堂高虎に五千石の侍大将として取り立てられた。このまま行けば藤堂家の元で御家安泰であったが、大坂冬の陣で総堀の埋め立てに反抗して高虎と口論となり切腹を命じられた。近年の大阪城の発掘調査の折に、堀跡から「菅平右衛門様・・・赤右衛門」「鴨・・・衛門」と墨書された木簡が発見されたのは堀を埋め立てる達長への陣中見舞いとも思われ面白く興味を掻き立てられる(⇒❡)。彼の性格からすると、こんな理不尽な合力に陣中見舞いなど不要とばかりに鴨ごと堀に投げ込んだものかもしれない??・・とにかく、達長の人生はまさに”人間万事塞翁が馬”を地で行った感がある。大きな節目の戦いでは全て裏目裏目の連続だが、それを跳ね返すように全ての領主から厚遇を受けている。最後は些細な口論から一気に転げてしまった感は否めないが、これも約束を違える家康に対し彼の譲ることのできない気骨の現れとすれば、冥土でも決して後悔はしていないだろうと小生は思うのである。
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