南海治乱記・・・天正十一年春、土佐元親阿州大窪越をして寒川に入り田面山に陣して、三好存保居城虎丸を疲がさんが為に與田入野に入て麦薙をなし早苗を返す。元親父子、虎丸の麓に陣を居て昼食をなし玉ふ処、香川信景、大西上野介は手を分て引田の浦に発向せんとす。仙石権兵衛尉秀久は二千余人を以て引田の浦に到着し、家臣森九郎左衛門を以て与地山の城に籠しめ山西のやうを聞合する処に、土佐の兵一万余人與田入野に入り香川信景、大西上野介は引田に向ふと聞しかば、仙石氏一千余人を三手に分ち仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平を兵将として引田中山に入て伏せ置き西方の兵の来るを待つ。土佐方には引田に敵兵有と云事を知らずして押来る処に山中にて強兵に行当り騒動して追返され足並を乱て與田口迄敗北す。仙石衆北(にぐる)を逐て競来る。香川方、敵の少兵なるを見切り我が兵を進て戦を始む。

           元親は引田表の鉄砲の音を聞玉ひて曰く、今此辺に戦べき敵なし、仙石権兵衛と云者、羽柴秀吉より讃岐国を賜べきとの朱印を受て下向すと聞く、是にて有べき也。桑名太郎左衛門、中島與市兵衛行て見て来れとあれば二人馳て行く処、香川信景、国吉三郎兵衛、大西上野介合戦に取結ぶ。右二人の使も手筈に合す。元親父子の旗本も程なく押寄られ彼是入り乱れ黒煙を立て攻戦ふ。仙石方少兵なれば西方の猛勢に押立られて敗軍す。桑名太郎左衛門、中島與市兵衛は二度の鎗傷にて頸二つ宛取る。前田平兵衛、其弟彦六二人して仙石勘解由を討つ。仙石方追立られて引田中山道に引入る。敵も北るを逐て山中に入来る。仙石権平は十八歳の若武者なれども大剛にして奇才あれば地利を計て我兵に下知し返し合して奮撃し敵を破って勝を制し引んとする処に、土佐方稲吉新蔵人と名乗って互に馬上にて渡し合、両敵とも深手を負ふ。権平は続く兵なく新蔵人は身方続て権平爰にて討れぬ。即ち其場所に石碑を立て今の世までも隠なし。其の権平が墓に霊妙なること多くして閭巷の説に遺れり。権平は仙石秀久の従弟也。一説には仙石氏家臣森九郎左衛門が息男也。両説を存して知人を俟(ま)つ。前田新之丞は宮地五郎左衛門を討ち、新之丞も頸一取る。此外、香川衆大西衆も岩倉、一宮衆各首級を得て其家々の記に遺れり。

香西が兵は十河の城の押として平木の城にあり。植松左衛門尉十七歳にして質として香川の手にあり。初陣に頸一つ取って心ばせを顕す。元親、若輩を進めしめんが為に感状を賜ふ。香川家の感書に云、去る廿一日大内郡入野屋合戦に於て頸一つ之を討ち捕る、無類無き働き神妙に候。粉骨抽んず可き者也。天正十一年五月二日 信景 山地九郎左衛門殿へ と也。九郎左衛門が云、敵は田村志摩守と名乗なれば平士には非らず、感状を認(したため)かへて賜べき由を申す。右筆人が曰、左あれば頸帳のつきやう悪し、調かへて御判を申請べしと申す内に延引して其ままに持伝ふ。且又、上方衆引田の退口に仙石覚右衛門と名のって後殿(しんがり)たり、中島與市兵衛と鎗を合す。其内に仙石衆船木まで引取、覚右衛門跡押て引取る、大剛の擧動也。中島與市兵衛は大将の引去るを目がけて深入し敵多兵に取こめられて討れぬ。又、中島氏は武勇と云ひ人才と云ひ土佐方に於て類少き兵士を失ぬるこそ無慙なれ。

元親、其の北るを逐て引田に入り、黄昏に及ぬれば湊の上の山へ押上、勝鬨をとり行ひ、其夜は其所に野陣し敷皮の上にて夜を明し、翌日早天に敵を見れば引田の古城に取上、引田の町を圍で陣す。城と町との間に塩入の江あり。元親曰く、潮の引を待つべからず、急に渉て町を焼べしとて大西上野介に命ぜらる。上野介が兵、浅み回を見玉ひて真直に渉りてこそと申さるる。吉良左京進、其江を一文字に渡ければ上野介より早く渉て焼立たり。元親曰く、昨日、桑名太郎左衛門が手へ取たる旗を出して敵方へ見せよと有しかば、江島太郎左衛門と云ふ者、持出て引田の城近く振回て帰る。夫より吉良左京進、大西上野介、兵勢をなして古城へ攻寄る。敵、是を見て山城の兵を下し舟に取乗て漕出す。誠に二千人を以て二万に及ぶ大敵に対応すべき事に非ず。然ども初合戦には一千余人を以て香川、長尾、大西等と五千余人に勝つ事は敵方の諸将、此の表には合戦すべき敵なしと油断して其備なき故に不意に逢て敗軍せり。兵家の権謀宜く知るべき事也。元親、引田の戦に勝て寒川郡に赴く。安富肥前守、雨瀧の城を守る事を得ずして小豆島へ退く。其臣、六車宗旦土佐方へ降して其跡を守る也。  (土佐元親、引田浦に戦ふの記;巻之十二)

 

南海治乱記・・・或老父語て曰く、引田合戦は天正十一年五月也。我幼少にして其陣には立ずと云へども、即ち聞所あり。初合戦は仙石方の兵、戦勝て敵を追伐する事数町也。然れども少兵なれば其終を持つ事を得ずして土佐方の兵に追返さる。仙石権平十八歳にして紅梅鴾毛なる馬に乗り初合戦に高名し引取る所に土佐方より稲吉新蔵人と名乗って若武者一騎鞭を上て馳来る。権平、山口に返合て馬上にて太刀打し引組て落重り互に深手を負処に土佐方の兵来重なりて権平爰にて討れぬ。即ち其所に墓を築き石塔を立て今に存せり。其比、僧あって夜中に通りしば是は何人の墓やらんと云へば墓の中より仙石権平と答ふ。僧、驚嘆して読経回向して通り近郷に止宿して其旨趣を記し銘を作て板に書付、墓に立置て通行ぬ。又、僧有て夜中に通しかば甲冑を帯びたる武者馬上にて行向ふて曰く、此馬執(なづむ)て行かず、希くは直して給はれと云ふ。僧曰く、御身何人ぞと云と覚て見れば墓に向へり。僧驚て読経念仏して通り近郷に止宿して翌日来て其記を見れば、仙石権平十八歳にして紅鴾毛(あかつきげ)なる馬に乗ると記せり。僧即ち此事なるべしとて紅梅鴾毛(こうばいつきげ)と改書して通しと也。又、其比何人やらん、墓に和歌を手向て短冊あり。「武士の二度の懸して権平は 陣の引田に名のみ遺しつ」と也。今の世に至るまで武士たらん者は墓の前にて下馬し拝をなして通る。誠に人は一代、名は末代也と語りき。  (老父夜話;巻之十二)

 

元親記・・・・・角て仙石権兵衛尉は太閤様の御朱印頂戴して、讃州へ下りたるとは聞きしかど、終に地方へ人数をもをろさず、物色も見せず、爰やかしこの嶋陰に船をよせ、元親と一戦を好み、引田表への働を相待ちたると云ふ。

           天正十一年の春、元親卿東讃岐に至り打出でらる。先づ引田廻りの麦を薙せ、苗を返させ、虎丸の城の麓に父子弁当を遣ひて居給ふ処に、仙石は引田の湊へ船を入れ、人数を打上げ合戦を好み、進んで待つ。元親卿はその日、合戦せらるる筈にて之無き処に、東に当つて鉄砲の音頻なり。桑名太郎左衛門・中嶋与一兵衛見て参り候へと云付けらる。二人懸けて到る処に、早、香川の一手、国吉三郎兵衛・大西上野守合戦に取結ぶ。右二人も早手に相、その日合戦あるべしと兼て謀ざる故、味方の勢、引揃はず少しまばらなり。是に依て、敵強て先手の武者、少し足床を乱す。爾処に右の太郎左衛門・与一兵衛・前田平兵衛・辻新丞・大西上野一番鑓して込返したり。簱本も程なく押寄せらる。敵味方入乱れ、黒煙を立てて切戦ふ。仙石、猛勢に追立てられ、已に敗軍す。桑名太郎左衛門・中嶋与一兵衛、鑓前にて頸二つ宛捕る。稲谷新蔵人は仙石権平を討捕る。前田平兵衛は弟彦六手助して仙石勘解由を討捕る。前田新丞・宮地五郎左衛門・辻新丞等も頸一つ宛捕りたり。この外、香川衆、大西上野の一手、長尾衆、岩倉・一の宮衆、予州衆何れも数人討捕る。仙石覚右衛門と名乗て中嶋与一兵衛と鎗を合せる。然れ共惣用(すべて)敗軍故、覚右衛門も其を引く。仙石は残り少なに討ちなされ、船本さして引取る。中嶋与一兵衛は大将仙石を目がけ、船本迄追付き、既に鎗付けんとする処に、大勢に取籠めらる。与一兵衛はそこにて討れたり。

兎角する内に黄昏に及ぶ。元親父子、引田の湊の上の山へ打上り、勝時噇(どっ)と上ぐ。則ち其に陣を居、敷皮一枚にて夜を明し、さて早朝に敵方を見れば、引田の古城へ武者を上げ、引田の町を囲みて居たり。本陣と町の間に深き幢江あり。猶塩みちたり。塩の引くを待つべからず、急ぎ打渡し、町をやけとて、大西上野を云付けらる。上野の人数、江の浅みへ廻るを見給ひて、真直に打渡してこそと宣ひて、追々蓮池の左京を渡す。江を真直に打渡し、上野より先に焼きたり。その時元親の嫌尾(きび)よしと宣ひけり。前田の戦場にて、仙石ののぼりを一つ、桑名太郎左衛門手へ討捕りたり。こののぼりを敵に見せよとて、江村太郎左衛門と云ふ者、引田の古城近く打渡して、のぼりをさし上げ、ふり廻して見せて帰る。扨て左京進と上野は、古城へ打上りたる敵を追崩す。敵は漸々舟に取乗り、ちりぢりに押して北(に)げたりけり。・・・ (仙石権兵衛と合戦の事;巻之中)

 

広報しろとり・・国吉三郎兵衛の墓:帰来お旅所の東側竹やぶの中に長曽我部元親の兄の墓と言われる凝灰石の塔があります。専門家の説では墓ではなく経幢だとのことで、附近に僧州(ず)、赤坂(閼伽坂)、法月、金剛羅など寺院にゆかりのある地名があり、昔白鳥にあったと言う鶴内寺はこの辺りにあったのではなかろうかと思われます。経幢とは供養あるいは現世利益を祈って経文を納めた塚のことです。然しここでは一応古老の言い伝えのままに墓ということにします。

           古老の説では元親の兄の墓だと言いますが、実は元親の一族、国吉三郎兵衛秦親宣の墓だということが土佐の人、国吉三郎兵衛十五代の裔国吉正一郎氏の家の記録として郷土白鳥誌に書かれました。天正十一年五月、阿波の中富川の戦に破れ、虎丸城に籠った十河存保を救うため、淡路から三千の兵を連れて引田の城に入った仙石権兵衛の軍を破るべく、中富川から兵を返した長曽我部元親が田面峠に本陣をおいて、その先鋒が与田川、白鳥、帰来、伊座で激しく戦いました。その戦闘の状況が国吉三郎兵衛略伝の一節として次のように書かれています。

           『黒栗毛の馬に乗り金小実の定紋腹巻を着て、獅子頭に鍬形打ったる甲の緒をしめ、小刀備前国光長、太刀備前一文字二尺四寸五分を佩き、片手には青貝入り三間半、山城守吉光作の鎗を持って進んだ。前後には三十騎ばかりを従がえている。これまで本陣に休んでいた仙石方の諸勢一同に立って相向った。権兵衛秀久これを見て「森本儀太夫、小林隼人、討たすな者ども、討たすな続けや。」と両陣大いに乱れて戦かい、兵南北に散乱、敵も味方も大いに亡ぶ、敵将秀久僅かの兵を従がえ逃れ行くを、三郎兵衛真先に進んでこれを追う、余りに深追いして味方に遠く離る。七、八騎引き返し三郎兵衛を囲んで左右より突く。三郎兵衛は立割りに割って進み三十騎ばかりの敵兵を五度まで打ち崩し類い稀なる働きにて敵武者六騎を討って取りしも自らも四ヶ所の疵を蒙り、歩むことも出来ず、手近の森に一息し馬を引き寄せ乗らんとするを仙石輝虎、鎗をつけ遂に討死す、従者中内藤十郎、中村藤介以下十二人、主君の討死を知って引返し相戦って悉く討死した。』とあります。従者の墓も昔は有ったと言いますが今は三基の石塔が淋しく崩れかかっています。

           昔はお旅所のあたりはうっそうと茂った森があり手傷を負った三郎兵衛が森の木影に身を寄せ息をやすめていたと思われます。戦の後二年程は土佐方の支配下にあり、三郎兵衛の奥方は遠く土佐より此処に来て小庵をむすび、夫の菩提を弔ったと言うことです。(「白鳥の伝説(62)」白頭散人著;昭和47年10月15日発行)

 

 

 

(赤が元親軍、青が仙石軍。国土地理院航空写真(昭和22年)を使用。拡大は画像をクリック!)

 

天正11年5月、虎丸城の十河存保と引田に上陸した仙石秀久の軍勢と対峙した長宗我部元親は、田面山に陣を取り香川信景、大西上野介らが先鋒となり丹生(入野)、与田方面から進軍を開始した。以下、上図の番号に添って戦闘状況を俯瞰する。

 

@「入野(にゅうの)」という地名は現在の「丹生」付近と思われるが、虎丸城の搦め手に当たる南麓にも「入野山」がある。正面大手(追手)の与田側と南北両方から進軍した可能性も残るが、ここでは三本松の平野から一気に引田に向かうルートを想定した。

A仙石軍は、仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平らを引田中山に伏兵させて敵を待ち受ける。このうち、仙石権平は土佐泊城の森志摩守元村(或いは村春)の孫で、兄の甚五兵衛とともに仙石秀久の家臣となって従軍していたのである。仙石姓を与えられる程だから知勇ともに優れた若武者であったことが偲ばれる。

Bこの伏兵戦は、引田城まで敵は居ないだろうと油断していた香川軍を大いに驚かせ、足並みを乱して与田口付近まで潰走した。勝ちに乗る仙石軍はそれを追って平野で深追いをしてしまったため、敵に少兵であることを見切られてしまい反撃を開始された。

C折りしも田面山の元親は近くで銃声の響くのを聞き、桑名太郎左衛門親光、中嶋与一兵衛重勝らに様子を見に行かせた。

D加勢を得た土佐軍は勢い付いてそのまま攻め戦い、ほどなく仙石軍は引田に向けて潰走を始めた。途中で仙石勘解由は前田平兵衛兄弟に、仙石権平は稲吉新蔵人に討たれてしまった。権平の討たれた地点は、伊座新池付近(Dの番号付近;下に拡大写真あり)と伝えられている。

E総崩れの仙石軍を追って土佐軍は引田に肉迫する。「白鳥町史」に、「土佐方では権平と名乗ったのは大将権兵衛と思って稲吉新蔵人が(権平の)かぶとを取ってみると童の首であった。元親の陣の中嶋与一兵衛がこれを見て”大将を討ち漏らし口惜しい”というまま先陣を進み秀久を追うことが甚だ急であった。」とあるのは面白い。ただ、余りに急であったため海岸で仙石覚右衛門と鎗を合わせたまではよかったが、大勢の敵に取り籠められて討たれてしまったのはとんだ勇み足であった。一方、「大日本資料」には国吉三郎兵衛や中内藤介、藤十郎といった土佐方の名だたる武将の戦死も記されており、この追撃が意外と激戦であった可能性も指摘されている(「森権平と引田合戦」坂口友太郎著;「郷土白鳥」第34号)。伊座中山付近の袋小路状の地形(下航空写真)をみれば、それを納得することも可能だろう。

F元親が引田に到着する頃には戦いも既に終わり日暮れとなっていた。その日はそこで野営をし、翌日、引田城をよく観察すると引田の町と城の間が入江となっているので、大西上野介頼包と吉良左京進親実に命じて入江を渉らせ町を焼き払わせた。また仙石氏から奪い取った旗をこれ見よがしに振り回し眼前の敵を挑発した。

G元親の大軍の囲まれ、孤立無援の仙石軍は戦いを続けることの無益を悟り全員船に乗って海上へ脱出。この情勢に存保方の雨瀧城主、安富肥前守盛定も小豆島に逃れ、以後、雨瀧城は元親に降参した安富家臣の六車宗旦が守った(⇒)。

 

  以上が引田合戦の概要であるが、坂口友太郎先生は、現地にある森権平の墓の日付が天正十二年七月十九日になっていることや、土佐方の資料で国吉三郎兵衛や中内藤介らも同じ日に“戦死”とあることから、引田合戦はこの日に行われたと考察されている。同年六月に秀吉が小西行長らに命じて十河城へ兵粮米を運び込むよう指示しているので(備前竹内文書)、同時期に合戦があったと考えるのは当然であろう。その他、「入野屋合戦」とは何ぞやとか、この合戦に続いて十河城と虎丸城、特に虎丸城は本当に陥落したのかなど、まだまだ謎は尽きない。おそらく引田合戦は1回で終わったのではなく、対元親戦最後の詰城である虎丸城に兵粮を運び込むごとに各地で戦いが波状に行われたことは充分に考えられるので、今後の更なる研究が望まれるところである。

  ちなみに下(左)は、森権平墓所や権平庵付近の拡大写真である。権平は新池付近で戦死し墓もその辺りにあったが、後に現在地に移したと伝えられている。馬が深田に足を取られ進退窮まった処を大勢でやり籠められてしまったのだという。さぞや無念な思いが亡霊伝説を生み、今は昇華されて「足の神様」として多くの人々に崇敬されている。愛馬の「紅梅鴾毛(こうばいつきげ)」というのは白い「鴾毛(つきげ)」に赤みがかかり(紅鴾毛)、さらに濃淡をなす複雑なブチ模様を指すようである(下右)。僧侶の認(したた)めた説明板の間違いに執着して主人の言うことを聞かないとは、馬もあの世では結構な自己主張をするのだな、と哀れさの中にもなぜか和みを感じさせる逸話でもある。

 

  

(左は伊座中山、仙石権平戦死地点の拡大図。右は紅梅鴾毛馬の絵図(⇒より引用)。)

 

 

 

 

   Home