南海治乱記・・・天正十三年五月十九日、土佐の元親降参のこと、大和秀長卿より谷忠兵衛を招き和親の事を計玉ふ故に、元親納得して無事に成り秀長卿より泉州内府公へ註進あり。土佐一国を元親に賜て御朱印を下し玉ふ。是に因つて国民まで安堵し四国の兵革止で、元親阿州大西を去て土州に還り三ヶ国の兵衆悉く土州へ引取る。元親嘗て十年の成功を以て三ヶ国を攻め靡け名家を破り衆命を損ずる事幾許ぞや、誠に無益の作業となりぬ。元親の人質として三男津野孫次郎を上洛せしむ。阿州一ノ宮の城主江村孫左衛門、讃州植田城主長曾我部右衛門尉も孫次郎供奉して上洛す。此二人両国の要地を守たる者なれば也。  (長曾我部元親降参記;巻之十五)

        

          阿波国 蜂須賀彦右衛門尉正勝に賜ふ  内一万石赤松次郎則房に賜ふ

          讃岐国 仙石権兵衛尉秀久に賜ふ 内二万石十河民部大輔存保に賜ふ

          伊予国 小早川左衛門佐隆景に賜ふ 卅五万石内二万五千石安国寺恵瓊に賜ふ 三千石徳居加増に賜ふ 一万四千石久留島加増に賜ふ

          土佐国 長曾我部宮内太輔元親に賜ふ

          凡て四ヶ国也。

        右四国記は建武二年乙亥冬十一月、細川定禅、讃岐に来て旗を揚し時、彼手に属して尊氏卿の御方人に参してより以来、天正十三年乙酉五月、秀吉公、四国征伐の時に至て二百五十一祀の間、国家の盛衰を記す。近年、元親に降せし領主どもは咸(みな)追放せられて四方に退去す。若し降さずして上方の征伐を待得たるには恩地を増加し玉ふ。天下一統して萬世の始をなす也。  (羽柴内府公四国配分記;巻之十五)  

 

 

元親記・・・・・扨て忠兵衛は老衆の一札を取りて、一の宮へ罷帰る。大納言へ罷り出で、羽久地にての仕合、始中終申上る。その上、南都にて一合戦手立の様子具に言上す。大納言殿尤左様の心中の所、御兼察相違無しとの御諚なり。先づ老、御意に応ずべしと申すの条、斯くの如きの一札を取申し候とて、老共に一札を御奏者迄上る。さて大納言殿、京都へ御註進ありて、御朱印下る。則ち人質として津野孫次郎罷上る。一の宮城主孫左衛門(江村親俊)、植田の城主右兵衛尉(戸波親武)も、孫次郎供して罷上る。同年十月に元親も上洛せしめ畢ぬ。

 

 

          長宗我部元親は、秀吉軍を山に誘い込みながら徐々に兵力を削いでいき土佐国境での最終決戦に持ち込むという、旧帝国海軍が太平洋戦争で唱えたアメリカとの艦隊決戦とよく似た作戦を立てていたが、圧倒的な軍勢と百戦錬磨の中央の兵将にかかっては所詮田舎の猛将に過ぎず、それが幻影に過ぎないことを悟るのにさほど時間を要しなかった。秀吉が土佐一国の安堵しか認めない以上、ここで降伏しても10年来、労苦を共にした家臣達に報いる術もなく、国を立て直すには相当の忍耐と切削を余儀なくされることは目に見えており、せめて伊予か阿波の半国は容認してほしかったと臍を噛んだに違いない。しかし、無条件降参したからには全軍粛々と土佐に向けて撤退するしかなかったのである。元親はさっそく三男の津野孫次郎親忠を、江村親俊と戸波親武を付けて人質として秀吉の元に送った。親忠は人質時代に藤堂高虎と親交があり行政能力も高く将来を嘱望されていたが、信親亡き後、盛親を溺愛する元親に疎まれ幽閉され、さらには謀臣久武親直の讒言もあってあろうことか弟の盛親に殺されてしまった。もし、親忠が生き延びておれば長宗我部氏のその後も随分と異なったものになっていたと思うと惜しむに余りある人物でもあった。しかしこの時は、ギリギリの降伏によって土佐一国は長宗我部氏の存続支配として秀吉の堪忍を得る事に成功したのである。

          それに比べると、他の三国は理不尽な元親の侵攻に蹂躙されたにもかかわらず、従来の領主の元に返還されることはなく、以後、他国者の支配となってしまったのであった。特に十河存保は、元親の侵攻に最後まで抵抗し十河家に養子に出ていたとはいえ、天正六年以降は自他ともに認める阿波一国の領主であったわけだから速やかに元の阿波を安堵されてもよさそうなものだが、讃岐内の2万石に甘んじるしかなかった。安富氏や奈良氏など抵抗を試みたその他の讃岐の旧領主も尽く録を失ってしまったのである。伊予は毛利氏に近い河野通直や西園寺公広など、多少の領土の存続は認められて然るべきとも思うが、新領主となった小早川隆景の九州移封とともに“どさくさ”で闇に葬り去られてしまう。これらの処置は結局、秀吉の意向がそうであったと解するべきで、豊臣政権の拡大とともに利用価値のなくなった旧領主達は子飼いの新支配者の元で無慈悲に粛正されていく運命にあった。秀吉は自分に救いを求めてきた者に対しては全面協力して侵略者を排除する懐の深さを見せつけるが、成功の暁にはキッチリと成功報酬と相応の大きなリベートを要求することを忘れなかったのである。

          下図は、四国征伐後の勢力図。新しい領主に組み込まれた小大名については項を改めて簡単に説明するが、特記すべきは平島公方と呼ばれた阿州足利家である。一応、微禄が蜂須賀家から出ているものの、いわゆる客将であって臣下ではない。他国には見られない微妙な立場で余り触れられた文献もないので、ここに敢えて独立勢力として記載しておいた。

 

 

(白地図は「旧国旧郡境界線図」を使用。拡大は画像をクリック!)

 

 

 

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