南海治乱記・・・天正十三年三月、上方の兵将師を帥て紀州に到り先づ根来寺を滅ぼさんとす。大和中納言秀長、羽柴中納言秀次を以て兵将としてこれに向はしむ。僧徒等是を聞て岸和田の近所に於て千石堀、積善寺、濱の城とて三所に城を築て是を防んとす。秀吉公、秀次を以て千石堀に向はしめ中川藤兵衛、高山右近を以て濱の城に向はしむ。且つ堀左兵衛尉、筒井順慶、長谷川藤五郎等兵を引て根来寺に赴く時に千石堀より兵士五百人を出して横ざまにこれを撃つ。秀次これを見て兵を進め夾み撃つ。根来の兵破ぶれて北(に)ぐ。即ち千石堀を攻めて功を立てんとす。然れども城中能拒ぎ隍(ほり)ふかく塹高くして攻め入るべき便なし。城中城外、戦争の聲震動す。筒井順慶頻りに火箭を発す。其の矢、城中の銃薬の筐に入りて城中忽ちに焦土となる。焼死する者一千六百餘人也。積善寺、濱の城、之を見て城を去って逃走す。秀吉公、兵を進めて根来寺に到る。寺僧、之を見て拒ぐことを欲せずして唯速かに城を出んことを欲す。仏像、経巻、何の處にある、何々は何にあり、皆持載て出すべしとひしめく中に秀吉公の先鋒は根来寺の門前に来り、ときを揚ぐる。僧徒大に驚いて逃げ去る。兵卒、寺院に入りて金銀米銭を奪ひ取ること幾量を知らず。秀吉公又兵を進めて雑賀に到り太田村の城を圍む。城兵三千人有て固く守る。秀吉公、以為らく是の城固く兵強して急に下すべからず、即ち長堤を築いて吉野川をせき入れ城中に灌ぐ。城中これを憂へて降を乞ふ。即ちこれを許して城兵を出し、城主并びに勇名の者百五十三人を殺す。即ち中村孫平次を以て城を守らしむ。夫より秀吉公、熊野を撃んとする時に新宮本宮の社人并に郷里の民黎等膝行頓首して降参す。秀吉公の曰く、熊野は関防の地多くし往来の煩をなす。即ち熊野別当に命じて是を破らしむ。是よりして往来の煩なし。夫より弱の浦、玉島を詣玉ひて遊覧あり。幾程なく紀路を治めて大坂に帰り玉ふ。是よりして後撃つ所は敗れ、押す處は潰ゆ。故に其の四月より四国陣を起し玉ふ也。   (羽柴秀吉公、紀州征伐記;巻之十三)

 

 

 

           天正12年暮れまでに小牧・長久手の戦いの始末がつくと、明けて13年3月、満を持して秀吉は紀州征伐を敢行する。これは勿論、つねに秀吉に反抗してきた根来、雑賀衆に対する報復戦であるが、来たるべき四国征伐の前哨戦であるとも言える。長宗我部元親にとってさらにショックなのは、この時まで事態を静観していた毛利氏が水軍を挙げて秀吉に加担したことで、瀬戸内の制海権はほぼ秀吉の掌中に帰し四国は全く孤立状態になってしまったことであろう。小牧・長久手の戦いで家康と東西から挟撃できておれば状況は全く異なっていただけに、講和に至る11月までに畿内に渡海できなかったことが致命傷となってしまった訳でさぞ臍を噛んで悔しがったに違いない。

           紀州征伐は水軍の援助もあって意外なほど呆気なく終わった。10万の軍勢で大坂城を発向した秀吉と秀次は、まず、岸和田近郊の千石堀、積善寺などの紀州勢の最前線の砦を攻撃する。千石堀は意外に堅城で鉄砲戦となり双方に相当に死傷者が出て持久戦になるかと思われたが筒井順慶勢の火矢が城内の火薬に引火して大爆発を起こし瞬く間に落城した()。これをみた積善寺城、沢城(濱の城は誤りと思われる)も相継いで落城し和泉における紀州勢は一掃されてしまった。続いて根来街道と粉河街道を進んで和泉山脈を越え、根来寺に焼き討ちをかけてあっさり降伏させた。雑賀衆の本拠地は海に近い太田城であったが、これも秀吉お得意の水攻めを仕懸けて1ヶ月ほどで開城した。あれほど信長を苦しめた雑賀衆であったが大軍の前では為す術もなく、鉄砲の威力も水攻めでは効果を発揮することは出来なかった。ただ秀吉の戦後処理として信長との相違点は、長島の一向一揆のように篭城した女子供まで皆殺しにするのではなく、首謀者だけを処刑してその他の民衆は武器を没収して代わりに農具を与えて帰村を許したことである。後年の刀狩りの先駆けであり、またこれは当時、世界でも例のない民衆の自治という”惣国”の体の良い解体でもあった訳で、民衆上がりの秀吉であればこそ民衆の弱さと怖さを知りきった上での施策であったと言える。さらに水攻めという戦法で兵力をほとんど損なうこともなく、掃討戦に費やす消耗もなかったので、間髪を入れずに翌4月には四国征討の大号令が発せられたのであった。なお、石山合戦で雑賀鉄砲衆の頭目として名を馳せた雑賀孫一重秀は、この時、すでに秀吉側に寝返っており、却って秀吉の先鋒を務めたといわれている。信長に最後まで屈しなかった孫一の英雄伝は、ほとんどが立川文庫や講談での作られた姿なのである。

 

 

 

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