南海治乱記・・・天正十三年乙酉の夏、秀吉公四国征伐に附て毛利家の軍兵三万余人、吉川元長、小早川隆景を大将軍として伊豫國へ発向せしむ。輝元は二万人を率て備後國三原の津に陣を居へ玉ふ。隆景元長、預州新居郡天満浦に著陣し同郡の住人、金子伝兵衛が籠たる高尾の城を攻らるる。金子は其素河野氏の臣として此城を預り居住せし處に、近年元親、阿波の大西弥山を取て預州を競望し大西上野介を以て調略を回らし東伊豫の兵将を語属んとす。阿州大西邑は預州河の江に相続けり。金子素より上野介と好みあり。此を以て元親に和親をなし国家の安寧を成しむ。今、毛利家の大軍を受て進退爰に窮りぬ。金子、吾が士卒に向て曰、我此城に籠る上は敵方に降参すべからず、大軍を引請け叶ざる時は自殺すべし。武士たらん者の此所を思ひ定めずんば武士に非ず、人寿五十年、愛(おし)みても猶限あり、久からざる命を愛みて久き名を汚す事なかれ、必ず勇悍の働きをなし名を後世に擧べしとて、逞兵五百余人を以て少も撓ず籠城す。
寄手小早川隆景は大手口の山下より攻寄する。吉川元長は山の手に回り尾伝に攻寄する。然して吉川の手より山形木工之助、矢合の鏑を射る。夫より両敵互に矢鉄砲を打合こと雨の如し。吉川元長より小早川の陣に有ける臺無の大筒を取寄せ尾筋の高みに仕懸させ放ちかくれば塀の手を打破り城内へ打入り数人死亡す。
翌日、両手より攻入終日攻戦ひ十四日の夜に入て終に乗つ取る。吉川衆分捕高名は今田安右衛門、井下左馬允、朝枝信濃、桂五郎兵衛、山縣源右衛門、綿貫権内、江田新左衛門、井上又右衛門、三吉五郎兵衛、野上宇右衛門、市川五郎右衛門、宮庄神保、山縣木工之助、中間新三郎外分捕高名猶多し。小早川衆には備中國の兵将先鋒をなして諸手には分捕高名の兵衆其の手柄の擧動多し。高名帳を見ざるが故に其の姓名記ず。寄手に手負死亡猶多し。少敵と云へども必死にして城を枕とせしかば対手向の勝負をせざる者は一人もなし。皆大剛の擧動をなす也。
夫より同郡の石川刑部は大身にして城三ケ所を持つ。殊に土佐元親の姪女婿也。両川の兵四万に及ぶ。多勢二手に分て取かくれば対揚すべき事に非ず、居城並に帆柱の城、柴尾の城ともに明け退く。吉川元長は柴尾の城に居陣す。小早川隆景は海邊に新城を築て居陣す。夫より讃岐境の仏殿城に取かくる。此城は阿州大西の入口にして元親の兵を以て相守る故に能く持ち堪へて退かず、吉川小早川、陣を寄せ方術をなす所に長曽我部元親土佐一國を賜て和平相済ぬと聞しかば、吉川元長小早川隆景使者を以て賀を述ぶ。又阿州より黒田官兵衛尉、蜂須賀彦右衛門尉、預州に来て内府公の命を述ぶ。然して伊豫一國を小早川隆景に賜ふ。黒田孝高語て曰、内府公の内意に先年両川、伊豫の河野が救として数度出陣の事聞召し、今度預州を隆景に宛行也。来年は九州征伐の事思召し立ちあり。吉川元春は隠居たりと云へども弓矢功者なれば先陣の事御頼み有べきと思召され候。九州平均の上、筑前一國を元春に参べく候、是れ先年両川筑前を諍ひ豊後の大友と取合の地なれば両川へ両國を賜ふて本意の為に此の如しと御意の由を語り玉ふ也。 (毛利家軍将、預州へ出陣の記;巻之十五)
土佐物語・・・・さる程に毛利安芸守輝元、三万余騎を引率し、預州新間に着き、金子の城を攻傾けんと議す。此由聞えしかば、金子備後守元宅、諸士を集めて申されけるは、秀吉諸国に下知して、軍勢を差向けらるる上は、我々運を開かん事、千万に一もあるべからず。さればとて元親に誓ひし約を変じて、今又降を乞はんは道にあらず。天下の勢を請けて討死せんは、尤武士の面目なり。勇は先祖の面を起し、義は戦死の尸を清むるぞ。命を限に戦ひて、死を善道に守るべし。但妻子捨て難き事なれば、落さんと思ふ旁は、急ぎ何方へも立退かれよ。露程も恨はなきぞと申されしかば、家老三島源蔵進み出で、こは口惜き事を承り候ものかな。君、臣下を蓄へ、恩を厚うし禮を尊び給ふは、国家を保ち乱を静めん為にて候はずや。月頃日頃恩禄を食み乍ら、斯る時節に心を変じ、不忠を存じ候はば、豈人といはんや。敵は縦令百万騎もあれ、命を限り勝つも負くるも時の運、城を枕と思ひ定むるより外は候はず。各如何にと居長高になりて申しければ、家老黒川左門を始、一座皆此儀に同じ、潔し三島殿、此中に誰ありて、義より命を重んじ、恥を求めて名を失はんといふ者や候べきと、皆一同に詞を放つて、討死を一篇に思設けてぞ居たりける。
斯る所に岡豊勢二百余騎、元親の下知として合力に馳加はる。軍勢愈勇をなし、寄する敵を待懸けたり。程なく中国勢、追手搦手一同に鬨を作りて押寄せ、鉄砲をつるべ矢を放し、喚き叫んでぞ攻めたりける。城中にも鉄砲をつるべ返し矢を射返し、劣らじと防ぎける、素より討死と、思ひ定めし事なれば、一足も退かず戦ふ程に、悉討死して、今は大将元宅・三島・黒川以下十三騎になりて、城の内に引きけるが、深手薄手五ヶ所七ヶ所蒙らぬはなかりけり。元宅申されけるは、又敵陣に駆入り、討死と思へども、今は進退心に任せねば、雑人原の手に懸らん事も口惜し。軍も思ふ程はしつ、今は思ひ残す事もなし。さらば自害せんと押肌脱ぎ、腹一文字に掻切り、俯伏になり給へば、残る者共思ひ思ひに自害し、其名計りを残しける。 (金子陣の事;巻第十四)
十河物語・・・・天正十三年の春、秀吉公根来を御退治あり。紀州太田を水責めにめされ南方平均に属し、同年の夏四国御退治、御名代に御舎弟大和大納言秀長卿を遣はされ、其時はいまだ美濃守たり。三好孫七郎秀次・備前の宇喜多八郎秀家・小寺官兵衛尉(黒田孝高)・赤松次郎則房など阿州へ付き、城々を責む。豫洲へは毛利右馬頭輝元、吉川・小早川を先として金子の城をせめ、城主降参せず腹切たり。偖(さて)長宗我部降参いたし、土佐一国安堵す。讃州をば仙石権兵衛尉にたまはり、十河隼人佐政泰(存保)も安富玄蕃允も本領して仙石が旗下に成りにけり。・・・
河野氏の支配下にある東予地方も、度重なる細川氏の侵攻や本家の河野氏の衰微によって次第に双方の緩衝地帯として独特の支配体制が構築されていった。盟主となる石川氏は備中細川氏被官の流れを汲み(⇒❡)、このことからも従来の河野氏とは別の勢力であったことが理解される。それだけに地理的にも近い阿波の三好氏との縁組も積極的におこない(石川道清の室は三好長慶の娘)、元親の頃には大西上野介の仲介で土佐の麾下に靡いたのであった。そうなると他の城主もこれに倣えということで、四国中央市の川之江城(妻鳥采女正)、渋柿城(薦田治部進義清)、新居浜市の生子山城(松木三河守安村)、岡崎城(藤田山城守芳雄)、金子城(金子備後守元宅)、宇高城(高橋美濃守)、西条市の高峠城(石川虎竹丸)、高尾城(石川備中守通清)なども土佐方となり、元親による東予の無血支配はここにほぼ完成したのである。しかし、盟主の石川通清は四国征伐の前にすでに死亡していたらしく嫡男の虎竹丸がまだ幼いことから、采配を振るったのは金子元宅で、各領主が分散して戦ったのでは小早川隆景軍3万の強大な敵に立ち向かうことは不可能なので、石川氏の高峠城と高尾城に全軍を集約させて隆景軍を待ち受けたのであった。
かたや小早川軍は、総大将を毛利輝元として三原におき、数百艘の水軍を三軍に分け、今治と新間(おそらく新居浜付近、御代島か?)、宇摩郡の天満浦に上陸して速やかに進攻を開始したのである。水際には若干の金子水軍や忽那水軍が対峙して御代島沖で前哨戦もあったらしいが、多勢に無勢で大した損害もなく7月12日には早くも高尾城を包囲している。14日には元宅の弟らが守る金子城が激戦の末、陥落し、前後して高尾城も陥ちて元宅は壮絶な戦死を遂げた。続けて高峠城も包囲され、虎竹丸を土佐に逃した後、城に火をかけて野々市原に打って出て、長宗我部援軍200と併せて800の兵将は一丸となって隆景軍に突入し壮絶な玉砕を遂げたのであった(⇒❡)。隆景は事前に元宅に、貴家は長宗我部家譜代の臣でもなく今の秀吉に抗うことは詮ないことであるから速やかに降伏するよう勧告したが、土佐に人質を取られていることもあって断固拒否して戦火を交えたのであった。追い詰められた兵将はさすがに一騎当千の働きで散々に切り死にしたために隆景軍の損害も殊の外甚大で、その鬼神のような勇猛さを惜しんで野々市原に「千人塚」を建立して戦死者を弔ったという。このあたりの合戦の模様は「澄水記」(「四国史料集」山本 大校注.人物往来社 昭和41年)に詳しいので参考にされたい。また「萩閥閲録」など毛利方の史料にも参考となる記事が多いのも注目すべきであろう。さて、隆景はこの戦いの後、軍を東方に進めて生子山城や川之江城も落とし国境を越えて白地の元親本陣に迫ったが、元親が25日に秀吉に降伏したために全軍を引き上げた。こうして、四国攻めで最も激戦と言われた「天正の陣」(この戦いの伊予側の呼び名)は東予の主だった領主が全滅するという最悪の結果を残して終結したのである。
この地方では「トンカカさん」と呼ばれる哀愁を帯びた節回しの盆踊りが各地で踊られるが、これは隆景の「弔い舞」に起源を持つ戦没者への鎮魂の踊りとして大切に伝えられている。隆景は舞の得意な武将でもあった。平成25年、新居浜市金栄校区では、飾り幕に金子元宅の奮戦を描いた太鼓台を200年ぶりに新調した。「頃は天正十三年の 予州風雲告げるとき 文月なかばに寄せ来る敵は 隆景軍の三万騎 ・・・」というトンカカさん踊りとともに義に殉じた郷土の英雄を、校区を挙げて高く顕彰しているのは誠に喜ばしいことである(金栄会HP⇒❡)。さらに余談ではあるが、大坂夏の陣後、断絶した長宗我部家家臣が他大名に仕官した記録「土佐国元親公侍中盛親乱後諸方へ身上有付申衆中之覚書」(「皆山集」所載)に、松平土佐守殿(山内忠義)へ召出として、石川彦左衛門二百石、金子傳十郎三百石 とあるのは、忠義の臣として名実ともに土佐藩士になれたことを示すもので、元宅もあの世でほっと胸を撫で下ろしたことであろう。
(衛星画像は Google マップを使用。拡大は画像をクリック!)
野々市原附近の様子。両城とも断層崖に築かれている。(国土地理院航空写真;昭和23年を使用。拡大は画像をクリック)