南海治乱記・・・羽柴秀吉公は凡民の家に生れて其気象魁偉にして、然して兵権を能す。織田信長に仕え播州の長となる。明知(明智)日向守光秀叛逆をなし信長を弑す。其の弊に乗て天下の柄を執り其功疾にして龍の雲に昇るが如し。天正十三年、南海道を征し其後威勢甚だ強し。東は駿河・甲斐・信濃、西は周防・長門に至り南海道北陸道を疆として圏内の豪家悉く服従して其命を受けずと云ふことなし。故に天正十四年、関白職に昇進して王命を執行す。姓尸なくして関白職に居ること倭邦に於て其始をなす。然して豊州大友義統に與奪の命を賜て豊筑前後四州を守らしむ。島津修理太夫義久、其命に従はずして謂て曰く、我に王命を下し給はば近衛殿こそ執達し玉ふべき處に何ぞや猿冠者が分として我に下知を加べき歟、片腹痛き事と云つべしとて曾て以て承引せず、薩摩大隅の兵を揚て肥後日向に出張し両州を服して豊後筑前に発向す。其威勢強して秋月種實を靡下に服す。大友家既に危難に及ぶ。此由京都に註進せしかば、秀吉公時をば少時も移すべからずとて四国中国の諸将に命じて大兵を挙げ、大友家の援兵として豊筑の間に発向せしむ。
先づ伊豫州小早川隆景一万余人を率して長門州に渉り、毛利家吉川元長と相倶に三万余人、赤間関を踰(こ)へ豊前州に入り、黒田勘解由次官孝高、撿使として従行す。毛利輝元、二万人を以て長府に止り其根を固ふす。豊州小倉の城は香春岳の城主、高橋右近大夫元種が端城也。毛利家の大軍、門司の関を踰ると聞て城を捨て退く。吉川小早川黒田孝高、小倉より五里計押し出し菅田に陣取り、小倉の城には吉川元長居陣す。其後、毛利輝元も入城し玉ふ。既に十月も過て両川の兵衆二三里先の宇留津の城に取かけ即時に攻陥す。十一月初に障子が嶽の城に取かくる處に城を捨て引退す。夫より香春嶽に取寄せ向城を取て相対し段々に取詰め吉川衆を以て三の嶽を乗取攻め、戦事数十度に及ぶ。十二月廿四日扱に成て和平す。筑前鞍手郡主杉十郎、連並遠賀郡主麻生與次郎某、宗像郡主田嶋大宮司某等、隆景に属従して上方の御方人となる也。さて、又両川の兵衆、豊後境に長野三郎左衛門が居城右馬が嶽の城を取て黒田孝高を入城せしめ其の近郷に陣取て越年し上方の御出馬を待つ也。
さて豊後州へは仙石秀久、関白の使令を握て十月末に出陣す。十河民部大夫存保並びに讃州の聚り勢、之に属して三千人、土州長曽我部元親三千人、偕に六千余人を以て海表を渉り豊州府内に着陣し、上の原と云所に陣壘を築き大友家に力を合せて相保つ也。 (四国中国の諸将九州援兵の記;巻之十五)
戦国たけなわの頃、九州に群雄割拠した大名も、天正6年(1578年)の耳川の戦い(⇒❡)で大友氏が大きく後退し、天正12年(1584年)の沖田畷の戦い(⇒❡)で龍造寺隆信が不測の頓死を遂げると、島津氏の優勢は動かし難いものとなった。おまけに義久、義弘、歳久、家久の4兄弟は粒ぞろいの猛将で、その後も筑後や日向への侵攻が続き九州統一という野望を着々と進めつつあったが、一方の大友義鎮(宗麟)はキリシタン大名で宗教上の対立を国内に抱えている上に嫡子の義統は凡庸であった。自国のみでは滅亡が目に見えているだけに宗麟は自ら上京して援軍を要請、秀吉は時を移さず中国四国の大名に号令を発して島津征伐が開始されたのである。その間の島津軍の侵攻路は隈本(熊本)から真っ直ぐに北上する島津忠長・伊集院忠棟を中心とする筑前筑後口、八代から阿蘇南部を横断し竹田に至る島津義弘を中心とする肥後口、日向から臼杵、府内(大分)に直上する島津家久を中心とする日向口の三方面同時作戦であった。特に有名な戦いは筑後方面では、高橋紹運(立花宗茂の実父⇒❡)の守る太宰府岩屋城で、島津の降伏勧告を拒否し700の守兵とともに壮烈な玉砕を遂げた。天正14年7月のことである。続けて立花宗茂の守る立花城に殺到し宗茂自身も父と同様に徹底抗戦の戦死を覚悟したが、8月24日に毛利軍上陸の報を受けて島津軍は一旦撤退した。その後は小倉方面からの毛利、黒田連合軍の手堅い展開によって宇留津城、障子岳城、香春岳城などが陥落、秀吉の着陣を待つ状況となった。
一方、肥後口と日向口は、仙石秀久や長宗我部父子の四国方面軍が豊後に上陸した10月以降の急転直下となる。すでに日向の大部分は島津側への内応が相継ぎ無人の荒野を行くが如くであったが、要となる志賀親次の守る竹田の岡城は12月になっても陥落せず包囲したまま義弘は豊後方面に進んだ。家久は豊後に入ると軍を二手に分け臼杵(丹生島城)の大友宗麟に向かうとともに、義統の拠る府内城を一気に突くべく大野川に沿って北上し戸次の鶴賀城に猛攻を加えた。守勢の利光鑑教(宗魚⇒❡)は山城の地形を利用してよく持ちこたえたが、あろうことか矢倉の上で敵に狙撃されてしまった。大将がいなくなった城内は混乱し援軍を府内に要請、それに答えたのが仙石・長宗我部連合軍であった。仙石秀久は秀吉から自らが出陣するまでは敵に攻撃を仕掛けず軽挙妄動を慎むよう釘を刺されていたが、彼の性格からして、援軍の要請を断ることは土台無理な話であった。それとも島津が攻め込んだタイミングが最悪だったというべきだろうか?いずれにせよ、こうして運命の天正14年12月12日、四国軍が壊滅した世に名高い「戸次川の戦い」の火蓋は切って落とされたのである。
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