「石鎚山の切手」雑考

[名称]  国定公園切手シリ−ズ「石鎚国定公園」

[発行年月日]1963年(昭和38年)1月11日

[図案者] 原図:長谷部日出男  修正:斉藤栄嗣

[額面、刷色]10円(シ−ト20面)、多色(4色)

[発行枚数]    10,000,000枚

 「石鎚国定公園」は、愛媛、高知にまたがる10,683haの山岳地域として1955年(昭和30年)11月1日、環境庁によって指定された。現在も両県によって維持管理されている。切手は国定公園シリ−ズとして昭和38年に発行されたもので、瓶ヶ森の氷見二千石原から仰ぐ石鎚山を描いている。図案者の長谷部日出男氏は当時、郵政省切手デザイン室に所属する技芸官で、現在も日展系「日春会」会員の画家として活躍しておられる。雲なびく霊峰石鎚に大きな白骨木を配する構図は、まことに均整がとれて美しく四国山岳風景の定盤として非の打ち所もない。特に白骨木は、この絵の重要なワンポイントで、実際にこの目でみたいものだとシゲシゲと切手を眺めていたとき、「ん?この絵は、なにかおかしいぞ。」とフと思った。気がつかれた方もおられるだろうが・・・、そう、笹原と隣り合わせる、ゆたかなウラジロモミの林、こんなのあったかな?いや、切手が発行されて、かれこれ35年近くなるし、以前は存在していたのかもしれない・・?!

そこで、昭和30年代のだいたい同じアングルから撮られた写真を調べてみた。左図は、「四国山脈」(毎日新聞社 昭和34年刊)のグラビアを飾るモノクロ写真で、雲湧く石鎚の勇姿も切手に近い感じがする。手前には、昭和29年の国体時に建設された県営ヒュッテ(岳連ヒュッテを経て現幾島ヒュッテ)が真新しく輝き、古きよき時代を彷彿とさせるが、背後のキャンプ場の雰囲気は現在とあまり変わっていない。確かに白骨木が少し多めではあるがウラジロモミは辺縁に少し存在するに過ぎず、切手のような豊かな林のイメ−ジとはほど遠いようだ。(現在は、それさえほとんどない。)瓶ヶ森には、もう一つ、切手と同じような構図を呈している場所がある。白石小屋の南西側、瓶壺の背後にある笹原である。ここなら右側に豊かな林もあり、かなり切手のイメ−ジに近いのだが、切手の笹原の形は、どう見てもキャンプ場のそれである。それでは、ウラジロモミの林は、やはり想像の産物なのであろうか?

もう少し、意地悪く考えてみよう。左図は、少し古くなるが、「日本地理体系 中国・四国篇」(改造社 昭和6年刊)で、たまたま見つけた氷見二千石原の風景である。この白骨木の枝振りなど、なんとなく切手のものとよく似ていないだろうか?中間部を少し縮めると、まさにうりふたつである。さらに後ろには豊かなウラジロモミ林が控え、笹原のラインの感じなど、切手の手前部分の構成要素と極めて近似している。まあ、このような形の白骨木は、たくさんあるだろうし、何十年を経て、これらの木々もすでに跡形もなくなっているだろうから、もはや確認する術もないが、私は、切手の構図がそのような二つの風景を合成したものであると考えている。切手のデ−タでも斉藤氏が修正したことを明記しているので、そうであってもなんの問題も無いわけだが、やはり、切手の風景はあくまでも長谷部日出男氏の心象風景であるのだろう。あるいは、こうであって欲しいという願いが込められているのかもしれない・・・。

 思えば、氷見二千石原の白骨木も少なくなったものだ。その元となるウラジロモミの矮小木もあまり育っていないようなので、今後さらに、美しい亜寒帯林は減少していってしまうのだろう。これも、地球温暖化となにか関係があるのだろうか。あるいはスカイラインや林道などの開発も影響しているのだろうか。もし、そうだとしたら、切手が発行されてからの30年間に石鎚山系は、あまりにも大きなものを失ってしまったことになる。豊かな林と白骨木と笹原。どの一つが欠けても、この美しい風景を維持してゆくことは困難であることを、この切手が教えてくれているような気がする。国定公園=観光地ではないはずだ。観光化とともに、維持すべきものを維持できないのであれば、環境庁御指定の国定公園の名は返上すべきだとも思うが、さていかがだろうか?