平成11年晩秋、どこまでも澄み渡る青空の下、スズタケをかき分けながら手に入れた中東山頂からは、今から辿るべき石立山への大稜線が圧倒的なスケ−ルで眼前に展開して、果てなき山旅の歓びを心の底から感じさせてくれた。「難攻不落の中東山」とも呼ばれ、徳島岳人のあこがれであるこの山に、今、自分が立っているのだ、と思うと大きな誇りと、なんとも言えない小さな恐れが入り交じる奇妙な感激が湧き上がるのを抑えることはできなかった。それにしても「中東山」とは面白い名前だ。「中東」とはどういう意味だろう。すぐに連想するのは「中東和平」とか「中東問題」とかのアラブ諸国だが、これは、the Middle East の日本語直訳で直接的な関係はない。こちらの呼び方も正式には「なかひがしやま」であるが、最近は「ちゅうとうざん」でも充分通用する。それゆえに、この山が話題に上がると、つい石油と砂漠を連想してしまうのは私だけであろうか?
冗談はさておき、この山名について黒田修治氏らは「徳島の隠れた名峰と峠」の中で次のように考察している。「・・阿土国境の中間にあり、反面、土佐の国の東にあるために『中東山』と呼ばれるらしい」。これは、「the Middle East」が、極東までの中間にあり、反面、欧州の東にある、ということと同じ発想だ。徳島岳人として当然の帰結と言える。一方、頂上の記念プレ−トには「正しくは『口東山』」と記されていたが、それでは口とは、一体なんなのか?と疑問が増えるばかりである・・・。ところが、最近になって、石立山麓である旧土佐国槇山村の代表的地誌である「槇山風土記」(岡内京吾著、文化12年)の中に明瞭な解答を見出したので以下に記すことにする。
「別府村 御留山 十四ケ所 ― 政乃谷山 口西谷山 中西谷山 奥西谷山 白髪山 志留沢山 奥東谷山 中東谷山 口東谷山 松ケ平山 竜津山 北谷山・・」
御留山とは言うまでもなく、藩政時代、伐採を禁じていた山のことで、野中兼山以後は特にその保護に意を用いて土佐藩の先取的林業政策は今でも農林行政の模範となっている。ここに記された山々は、別府峡を挟む御留山を示したもので、現在もある程度、同定することが可能である。今、それを試みてみよう。用意していただきたいのは昭文社の「山と高原地図 四国剣山」(福家健二氏著)である。国土地理院の地形図は、谷の名前が記されていないのでわかりにくい。さて、別府集落の真西に「口西山」とあり、それに北東から突き上げる谷に「クチニシ谷」と記されている。別府峡の北面には、白髪山と「シラガ谷」、石立分岐と「ジルサワ谷」がそれぞれ認められる。さしずめ石立分岐付近が「志留沢山」なのであろう。渓谷の東側には1462m峰に上がる「クチヒガシ谷」、捨身ケ嶽への「リュウズ谷」、石立山本峰に突き上がる「北谷」がそれぞれ記されている。そうすると、口西山と白髪山の中間にある1468m峰と1558m峰に上がる谷がそれぞれ「中西谷」、「奥西谷」、ひるがえって中東山西面の大きな谷が「奥東谷」、その南側が「中東谷」ということになる。つまり、別府集落の最も手前から口、中、奥として、別府渓谷を中心に西側から東側へ、時計回りに口西−中西−奥西−奥東−中東−口東と配している訳で、極めて合理的、合目的的な命名法は、さすが林業先進国であると感心せざるを得ない。一方、白髪山や志留沢山、竜津山などは、古来からの固有名であるので、それをそのまま利用しているのであろう。そうすると「北谷山」が石立山自身になってしまうが、これはあくまで御留山を意識した名前で、その谷を中心として頂上に至る斜面全体を示すと考えられる。いったい昔は資源である森林が重要なのであって、大きな谷筋がひとつの単位として用いられており、魔物が住むとされる山頂などはどうでもよかった訳だ・・・。
話を中東山に戻そう。以上のように考えると「口東山」とするのは、少々不適当ではないか。むしろ地形図上、頂上に直接突き上げている谷の位置から「奥東山」とするのが最も妥当ではないかとも思われてくる。「中東山」でも大きな間違いはないが、沢の源頭がやや南に偏っている恨みが残るため、本当に「中東山」でいいのかと言われれば疑問がないでもない。結局、これ以上は地元の人の意見も聞かなければ即断はできず、記して後考を待つしかないが・・・しかし、概して山の命名ほどいい加減なものはない。今の国土地理院の山名も、戦前の陸軍陸地測量部の独断と偏見による命名をそのまま世襲しているに過ぎない。当時、さまざまあった反対意見を国家権力でねじ伏せてしまったケ−スも多々あると伝えられている。今なら一つの山名でも決定することは、困難を極めるだろう。「オラが山」への権利主張は、今も昔もお互いなかなか譲らないからだ。結局、大物政治家の鶴の一声か、意味もない合成山名になってしまうのがオチで、その意味では、明治期に決定されてしまったことは古来からの山名を残す意味では却ってよかったのかもしれない。現に石立山などは、阿土国境の山だけに伝えられる名前も多い。「北谷山」の他に「白髪森」、「五宰相」、「三皇台」などが知られている。また、近くの「高の瀬」も北川方面の人は「トウハの瀬」という。これは、南東斜面の「藤八谷」に由来している。別府方面からは「ジルサワの瀬」といっても間違いではなさそうで、昔からの呼び名というのは、国土地理院がどう決定しようが、そう簡単に捨て去ることができるものではない。よそ者のわれわれは、なおさら平等にそれらの権利を認めざるをえないし、また、それぞれに歴史的な趣きがあって面白く楽しい。さまざまな文献で、一つの山のさまざまな名前や謂われを発掘すれば、山の味わいもまた、それだけ多様的になるというものだ。「中東山」もまた然り、この名前は土佐国側の行政的なものに過ぎず、阿波側では、多分違う山名で呼ばれていたであろう。その名が今も伝わっているかどうか、またその名の妥当性や、さらに別の呼び名の可能性など、知りたい謎はまだいくらでも存在している・・・。
しかし、まあ、そんなことはどうでもいいかもしれない。思えば、あの日、3人の心がズタズタになってしまうほどのスズタケ漕ぎが待ち受ける石立山への稜線を目前に控え、中東山でしばらく至福の時を過ごしたのであった。剣山や次郎笈、白髪山から三嶺まで、剣山系全ての山々に囲まれて、全てが秋の日の中でキラキラと眩く輝いていた。本当にいい山、ああ、懐かしい中東山!それだけでいい!・・今、頂上で拾ってきた小さな石を静かに撫でながら、また、いつの日か、晴れ渡るその天辺に立って千里の眼を窮めたいな、としみじみ思う。
(写真:中東山から石立山を望む)