予土国境の山稜を為すこの二座の山は、東の中川峠、西の猿田峠という二つの旧官道に挟まれて、古代から多くの旅人を見守ってきた。西側の大森山は急峻であるのに対し、佐々連尾山は概してなだらかな笹の山である。猿田峠の北斜面には猿田集落の水田が拡がり、まさに桃源郷の幻に酔うことができる。ここは、平家ではなく源氏新田一族の落ち武者伝説を有するが、山中とはいえ、交通の要衝であるため人の往来も活発で、とても世を忍ぶ生活はできなかったであろう。長曽我部軍の一部も、この山路を超えて伊予へ侵攻したと「予土の峠物語」には記されている。一方、中川峠も近世には猿田峠にも益して賑やかであったにちがいない。近世には、と断ったのは元禄頃、佐々連尾山の北麓に「佐々連銅山」が開鉱されたからである。鉱山の発達は、鉱石の運搬のみならず、木炭や鉱木をはじめ種々の生活物資の流通をもたらす。いかに土佐が閉鎖的で越境を禁じていたとはいえ、こんなおいしい話を傍観しているはずはない。木炭などの資源はこの近辺にほとんど無尽蔵なのである。多くの中持衆が中川峠を越して行き来していったであろう。さらに、楮、三椏や碁石茶など、四国山地の特産物もまた、峠を越していったであろう。しかし、それも今は昔。荒れ果てた峠の疎林の奥に、彼らの幻影が潜んでいるのみである。
平成9年5月10日。白髪トンネル高知側に車デポし、旧官道を猿田峠に向かう。さびれたとはいえ、数百年以上、踏みしめられてきた道は歴然と残っており心して歩みする。猿田峠は爽やかな風の中にあった。横の鉄塔が少し艶消しであるが、南に広く開けて、重畳たる土佐の山並みを見ることができる。官道は北に向かって植林の中に消えてゆくが、大森山へは右手のスズタケの踏み跡を辿ってゆく。山上のアケボノツツジと黒い岩塊がよく調和して美しい。小粒ではあるが急登の連続である。スズタケをつかみながらの登高が続く。これを登り切ると、以外に広い高原となり、あとは佐々連尾山まで快適な縦走となる。シャクナゲの詰まったやせ尾根を過ぎ、一面の笹原を自由に進むと佐々連尾山のやさしいピ−クに立つことができる。鉱山方面の様子を知りたかったが、残念ながら北側の展望はあまりなかった。中川峠への一本の道のみが、しっかりと尾根に沿って続いているのが見えた。しかし、それもいずれ、けだるい春霞の彼方へ消えてしまっているようだった。
こうして、天気にも恵まれて、佐々連尾山への登山は終わった。猿田部落から、最後に南を仰ぐと、夕映えの遠い山上の鉄塔のシルエットが静かに峠の位置を我々に示しているのが見えた。
(写真:大森山方面より佐々連尾山を望む)
平成7年3月18日。鈍い早春の光を受けながら、我々は稲叢山山頂に到着した。稲村ダム湖畔から一時間半ほどのやさしい登山だった。それでも日陰には、厳しい冬の名残の残雪がそこここに在って、われわれの眼を楽しませた。頂上は大きな岩の上で、西方に大きく開けて遠く石鎚山が望まれたが、次第にそれも雲の中に隠れてしまった。眼下は、1000メ−トル一気に落ち込んで、その底には大橋ダム湖が深く沈んでいた。お昼を告げるサイレンの音がその底の方から聞こえてきて、そしてまた深い谷の底に吸い込まれていった。
稲叢山。この山は、一昔前までは人跡稀な峻険さを誇り”人馬ともに通うべき山”ではなかった。平家平から越裏門に向かう安徳天皇一行は、しばらく、この山に留まれたが、食料に困窮したため、天皇自ら豊穣を祈願して”稲叢”と名付けられたという。幼少の天子を守りながら、この岩山を越していった平家の人々のわびしさは如何ほどだったろう。「皆山集」には、大臣以下五十八人が住んでいたと伝え、「土佐郡本川郷風土記」にも、稲村五十八社権現が在所より十八丁上に祀られていると記されているが、今はその場所さえ定かではない。さらに付近に”右大臣””左大臣”などの地名が残るともいうので、村史で”ホノギ”(山中の小字)も調べてみたが、該当するものはなかった。しかし、山麓に現存する”戸中””休場””刀ノ刃”部落はすべて平家に由来する名であると今に伝えている。こうして思いを馳せてゆくと、平家伝説が単に荒唐無稽な作り話でなくなってゆくのが自分でも不思議に思えてくる。
今、その絶巓に立って遠い山々を見渡すと、泣きじゃくる幼い安徳天皇と、それをなだめるやつれた乳母や武者の姿がありありと重なって見えてくるのは私だけであろうか。平家伝説は悲しい物語ではあるが、それがこの山に品格と強烈な個性を持たせる重要なエッセンスとなっていることもまた事実である。そうなるには、やはり千年に近い時の流れが必要であるのだろう。実際の悲しさや苦しさが伝説となって醸され、周囲の風景に完全に溶け込んでしまわなければならないからである。そこに存在するのは、もはや悲しみをも超越した我々日本人の美しい郷愁の世界であって、いつまでも大切にしたいすべての人に共通の”こころのふるさと”であるのだと、つくづく思う。
そのためにも、稲叢山は苦しい山であって欲しかったが、今はハイキングの似合う大衆の山である。せめて、40年前の厳しい様子を「四国山脈」から忍んでこの拙文を終わることにしよう。
”山歩きに自信のある連中でも、たびたび登頂をはばまれ、あるいは極度の労力を費やしていることからも、時間的な計算だけでは、成功できるものではなく、ここは一応部落付近で設営し、英気を養う一方、自後の地形でも研究するのが賢明策と思われる……”
(写真:稲村ダムより山頂を望む)