塩塚峰

 

愛媛県最東に位置する名山「塩塚峰」。今は、愛媛、徳島両県から、ほぼ頂上まで車道が延び、だれでも登れるレクリエ−ションの山である。一昔前まではスキ−場として、そして現在はハンググライダ−の基地として多くの若者を惹きつけてやまない。8合目には快適なバンガロ−やキャンプ場も整備され山城町側(徳島県)の「大歩危、小歩危」と抱き合わせた喧伝とともに夏場の賑わいは凄まじいものとなっている。愛媛県側は、それを指をくわえてじっと見ている形になっているが、新宮村のこれからの頑張りに期待したい。とはいうものの人工物の屹立する山頂となってしまうのもいかがなものか?何事もほどほどにしておくのが肝要であろう・・・。

 まず、山頂に来て驚くのは、そのまろやかな山上すべてが広大な草原であることである。そして誰もが「三嶺」や「笹ヶ峯」に居るような錯覚に陥り、この山がたかだか標高1000mに過ぎないことを忘れてしまう。360度ほぼ同じ高さの重畳たる山並みの大パノラマも、その大きな要素となっているが、この草原の姿こそ何よりも増して大きな人工の産物なのである。「塩塚峯」が以前、牧場であったことはよく知られているが、それもたかだか30年あまり前に始まったに過ぎない。山城町側で大きな力をいれたこの事業も肉牛価格の暴落や、低山ゆえの「アブ」などの害虫に悩まされわずか10年で中止せざるを得なくなった。同じ頃、なだらかな斜面で初心者に人気のあったスキ−場(当時は1m前後の積雪量があった)も暖冬続きの影響かいつのまにか忘れ去られてしまった。しかし、草原は、そのずっと前から存在していたのである。明治41年の5万分図「三嶋」を見ると「塩塚山」(当時は塩塚峰より塩塚山との記載が多い。伊予温故録、日本山嶽志など)山上は今と同じくことごとく荒地、または草地である。山麓集落の広大な採草地として大切に維持されていたからである。当時、カヤやススキは、屋根の葺き替えや肥料の堆肥製造に欠かせないものであった。特に塩塚峰周囲の緩やかな山腹を利用して作付けされる麦、葉タバコ、大豆(小豆)など一年三作のための「刈り肥」として乾燥させた野草は最も重要であって、この大量消費のため、村人総出で春の山焼きが行われ、秋の彼岸に「肥の口開け」という採草の解禁日があったと「愛媛県の山村」(篠原重則先生著)には記されている。特にこの地域の畑作山村の規模は他に比較するものがないほど広大であり、古くから拓けた土地柄もあって広い採草地は必要欠くべからざるものであったのである。また、山城町側には屋根葺き替えのための「茅(カヤ)講」なるものがあって、村総出で講を作り、相互に助け合って秋十二月上旬頃、日時を定めて茅刈りを行っていたという。宵からネソ縄をより、鎌を研ぎ弁当を作って翌朝、提灯をつけてドウメキ山(徳島県側では塩塚峰をこう呼ぶ。由来には諸説がある)の共有地に登り、夜明けとともに一斉に刈り始めたという。昼には茅を運びおろすために村中の女子供も登ってきて、大変な賑わいであった(ふるさと尾又を語る 橋岡孝男氏著)。そのような共有地は畑作に適さない山上に求めるしかなく背後にどっしりと構える塩塚峰の存在は、まさに一石二鳥であったであろう。当時、四国にはそんな多くの草原の山が存在していたと考えられるが、山村の荒廃とともに藪山や植林地に姿を変え、人声も絶えて大切な里山としての使命を終わったのである。

 そんな中で「塩塚峰」は、今も毎年、山焼きが行われしっかりと人々によって管理されている貴重な生きている里山である。この山は、その昔、弘法大師が霊場にしようとしたが雲辺寺山の方が三寸高かったので(実際は塩塚峰の方が高いが)雲辺寺山のほうに寺を建てた、という伝説が残っているが(愛媛の山と渓谷 山内浩先生著)、宗教上の禁足林にもならなかったからこそ今なお人々との生きた繋がりを保てているのであって、あの美しい広大な草原そのものが何百年にも亘る人と山が共同して作り上げた何よりも勝る人工の産物なのである。その意味で、冒頭で「人工物もほどほどに・・」と言わせていただいたのであり、安っぽい展望台や観光施設は、むしろ、このような山にはそぐわないように思われるからである・・・。

 晴れ渡る秋の一日、ススキのそよぐ明るい山頂に寝そべって、のんびりと遠くを見ながら頭をカラッポにしてみたい。足で登ってもいい。車で来てもいい。塩塚峰は、どんな人も優しく受け入れて包み込んでくれる自前の大らかさがある。それは、人とともに活き、人とともに在ることを、この山自身が一番良く知っているからである。

                (写真:山頂より笹ヶ峰(新宮)方面を望む。左端は三傍示山)