三傍示山

 

 愛媛県最東部に位置し、予阿土三県境を戴くかなめの山、三傍示。伊予と土佐を結ぶ街道である新宮笹ヶ峯の”杖立”付近からは、そのたおやかな三つの峯を間近に眺めることができる。「・・公私に使道に土佐の国を指す。而してその道伊予を経る。行程迂遠にして山谷険難なり(続日本紀 養老三年)」と記された予土国境。古人も笹ヶ峯国境を越えて一息、杖立地蔵に道中安全を祈念しつつこの山を眺めて旅心を慰めたことであろう。傍示とは「境界を示す杭」のことであり、今も笹ヶ峯に復元されているような「従是〇〇国」という標柱が三本立てられていたと考えられ、それがそのまま山名となったと容易に推測できる。”傍示”と名前が着く場所は結構多い。たとえば石立山の南に位置する四足峠を別名「傍示峠」と言い(阿波国漫遊記)、宇和島領と土佐領との境を「傍尓境」と呼ぶ(愛媛面影)など、およそ国境に用いられる一般名なのだが、前に”三”を戴く権利がある場所は四国広しといえども、わずか二カ所しかないのだ。

 明治期には、ほとんど”三傍示”の名が定着したと見えて、手持ちの文献を調べても、そう記されているものが多い。その二三を羅列しておこう。

 ●三傍士山(別称 三傍示山、三峰)土佐国長岡郡伊予国宇摩郡阿波国三好郡ニ跨ル、登路二里

       標高三千四百九十八尺・・・日本山嶽志

 ●三傍尓 立川下名村 此所景地也。北ハ予州、東ハ阿州三国ノ域ノ処也。故ニ名ヅク。阿州人

       ハ三傍尓ト曰ヒ、予州人ハ三峯ト曰フ。・・・土佐国白湾往来(皆山集所収)

 「三峯」とは、三国境というよりは山自体の形容なのかもしれないが、「三傍示」と同様、特に感慨を抱かせる名前ではない。ところが阿波では、古くは「不生山」と呼ばれていたことが「阿波誌」に記されているそうで、これこそ、この山の固有名である気がして嬉しく思ったものだ。残念ながら「阿波誌」を見る機会に未だ恵まれず、それ以上のことは不明だが、最近、阿波藩士 太田信圭が綴った「祖谷山日記」(文政八年)の一節「・・・伊予、土佐のさかひ粟山名とかやに、布生といへる生茂りたる林の中より流れ出る白川といへる谷川を渡り侍る。」を見つけて我を忘れた。”フセイ”と読むのだろうか?はたまた”フショウ”なのか?而してその意味は?「仏生」なら有り難い(下流には「仏子」という地名もある)が、「不生」は少し不吉ではないか、いや般若心経の一節「不生不滅」とすれば全てを達観したすばらしい名前である!など議論は尽きない。記して後考を待つしかないが、「フショウザン」「フショウヤマ」実にいい響きではないか。・・と私個人はそう思うのだが、しかし、今は良くも悪くも三傍示山なのだ。結局、「フショウザン」と「三傍示山」の関係は、小渕恵三と内閣総理大臣、徳川家康と征夷大将軍、細川勝元と右京大夫など個人名と官位名ということになろう。

 笹ヶ峯からスズタケの生い茂る稜線を進んで、山頂に立つ。伐採後の灌木帯で、西側にカガマシ山をわずかに拝める程度の退屈さに失望しながら山を下ったことを思い出す。個人としてはそんな見かけ倒しの人も多い。しかし、後日登った野鹿池山から、梶が森から、塩塚峰から、翠波峰から、国見山から、そして遠く三嶺から望んだその山は、さして高くもないにもかかわらず、重畳たる山並みに埋もれることなく凛として存在を誇示し、国境の要を、かたくなに守護しているように見え逞しく頼もしく感じたものだ。それが官位名の重みというものであり、個人名を不滅にする大きな要素でもあって、この意味では、「フショウザン」よりは、やはり鎮めの「三傍示山」がまさに相応しいのだろう。四国の岳人も、そんな三傍示山に最大の頌辞を贈っている。この山を想う気持ちは、やはり皆相通じるものがあるのだ、と心強く感じた次第である。

 「ついに徳島・高知・愛媛の三県境である三傍示山に到着。はるか東方にかすむ剣山系の山々をふり返りながら前進する。向こう西の方には二つ嶽などの懐かしい山々が見えはじめる。標識 No.32を高々と掲げて万歳を三唱する。」愛媛大学山岳会 (「愛媛の山と渓谷」より)

 「高知、徳島、愛媛の三県にまたがって、全山スズタケにおおわれ、何ものも寄せつけず、その誇りに満ちあふれている山である。」 堀川 弘 (「阿波の山」より)

 「よく目立つ表山とは異なり、どちらかというと地味な裏山的存在だが、周囲からどっしりとしたこの山の姿を見れば、枢要な位置に居を構えていることがいかにもふさわしく思われてくる。」 尾野益大 (「徳島の静かな名峰」より) 

                         (写真:笹ヶ峰杖立より見た三傍示山)