子持権現

 

 平成10年10月10日、この語呂の良い秋の日のひととき、シロジ谷方面から数ヶ所の鎖をよじ登って辿り着いた山頂の味は、長い間忘れていた青春の香りがした。石鎚山に勝るとも劣らない長大な鎖場が、同じ山中に存在しているとは、まさに新鮮な驚きであった。そして、石鎚山の鎖があれほど有名で、殊に近年は百名山ブ−ムで全国からよじる登山者が絶えない傍らで、わずか数キロしか離れていない山中に「通行止」の標識とともに人知れず朽ちてゆく巨大な鎖が存在する事実は、世の常とは言いながら「無常」という言葉を実感するに充分であった。

この二つの明暗を分ける一番の理由は歴史によるものだと最初は思っていた。「石鎚連峰と面河渓」(秋山英一先生著、昭和11年)には「旧権現山にも大正14年に鉄鎖が懸けられた。そして六百人の多勢にて運搬したと云う。」とある。旧権現山とは一般に瓶ヶ森を指す。確かに男山直下に申し訳程度の小さな鎖場があるが、この鎖だけを数百人で作ったとは考えがたく、同時に子持権現の数ヶ所も完成させたのであろう。当時は当然のこととして瓶ヶ森林道はおろか、土小屋からの縦走路もなかった。西の川から瓶ヶ森への登山道は、釜床谷を経由するあの「西の川道」が唯一のものだったと考えられる。そこへ石土山石中寺派が、信仰の道として鳥越から子持権現を経て瓶ヶ森に至る「子持懸け」あるいは「ホンガケ」と呼ばれる鎖道を作ったのであろう。そう考えると、男山の鎖は、申し訳どころか子持権現の前後数ヶ所の厳しい鎖場をクリアした者だけが取り付くことのできる、もっとも神聖な最後の鎖であって、なぜあんなところに・・という謎も解けるというものである。従って、このあたりが子持権現の開基元年ではないかと思っていた。実際、愛媛県側の資料で、これ以前に子持権現について記しているものは、私の知っている限りではない。まず、天保年間に編纂された「西条誌」には、瓶ヶ森についての詳しい記載があり石鎚権現が古くはこの山に祀られていたという「旧権現」の謂われも記されているが、子持権現についての記載は見あたらない。明治になって、39年発行の大著「日本山嶽志」にもなんの記載もない。さらに決定的なのは大正12年に愛媛新報に連載された篠原曇華の「四国アルプス縦走記」である。「男金剛女金剛」と名付けられた岩山が子持権現のことであろうが、鎖はおろか道もなにもなかったようで、綱を使ってよじ登り、草木にすがって滑り降りたことが克明に記されている。辛うじて、鎖が懸けられる2年前の大正12年発行「愛媛県新居郡誌」に「権現山」の名が見えているに過ぎない。標高1678m、大保木村東南境とあるので、子持権現に相違あるまいが、それ以上のことは不明である。しかし、鎖が懸けられた昭和にはいると、北川淳一郎先生著の「瓶ヶ森行」(「四国山岳」所載、昭和11年)に、土小屋への縦走路から大鎖を辿って子持権現に登ったことや岩窟の権現様のこと、途中一緒になったおばあさんが鳥越から子持さんをかけて瓶まで来たことなどが当然のごとく記されているし、さらに「石槌山の話」では、石中寺の小笠原観念師(知人であったらしい)が最近、瓶ヶ森を「石土山」として「石鎚山」と対抗しようとしていることや、笹ヶ峰(女山のこと)に数年の間に新しい祠ができたことなどが、やや批判がましく書かれてあることなどからして、ここに来て子持権現は、はじめて小笠原観念師という強力なカリスマのもとで信仰登山の基礎ができあがったのではないかと考えていた。

 ところがである。宝永3年(1706)に著された「土佐郡本川郷風土記」という高知側の資料によると、「子持ち権現と申所壱ヶ所、此所大滝也。高サ壱町斗有、其形則人の子供をおひ申たるやうなる滝也。往古より子持ヶ権現と申伝候。毎年霜月ニ亥ノ日を祭礼日ニ仕候、予州境也、在所之西ニ当大滝也、道法弐里有高山之滝也。」と書かれ祭礼が行われていたことがわかる。ここで「滝」は「タキ」で断崖を指すと思われ、峻険な岩峰が目に浮かぶようである。また、前後して筒上山と亀之森(瓶ヶ森)の記事があり、石鎚権現は、最初に筒上山に祀られ、ついで瓶ヶ森、そして石鎚山に移られたと伝えている。筒上山、瓶ヶ森ともに祭礼日が霜月亥の日であるのもまたいわく有りげである。筒上山は今も大峰宗覚心寺派の大道場で古い鎖場もあって、これら全ての峰々が古来からの一大修験道場ではなかったかと思われるふしがある。土佐、伊予両側とも、石鎚山より瓶ヶ森を旧権現と認めているところを見ても何かとてつもなく古い由緒が感ぜられる。石鎚山を開いたとされる「石仙菩薩」も、「釈善聖」として土佐側の村々に多くの伝承を伝えているのは、単なる偶然だけではなさそうだ。そのように考えると子持権現の信仰は、決して北川先生の懸念しているような新興宗教などではなく、宗派はどうあれ、瓶ヶ森を中心に置く古代修験道の中興開山である、と言ったほうが適切ではないかと思われるのである。原因が歴史の浅さではないとすると、これだけの山中の道場が忘れられて行く真の理由は何であろうか。私は、やはり登山道の変遷が大きく関わっていると考えている。特に瓶ヶ森林道の開通は大きな要素ではなかったか。本来、瓶ヶ森への下りとして使用されるべき大鎖のほぼ真下まで車でいけるのだから、権現様をお参りすることが目的の信者は、その一カ所の鎖をよじるだけで事足りるのだ。これは、山全体を信仰の対象とする修験道から、現代的な「お寺参り」への信仰の変化でもあるのだろう。鎖場は朽ちても、頂上の岩窟にはこれでもかといわんばかりのお供え物があがっていることからも一応うなずける。この辺の事情は四国八十八ヶ所でも同じことだ。歩き遍路は今でも尊ばれるが、ロ−プウェイの通じた山の旧遍路道が次第に廃れていっているのは誰も否定できまい。何百年も続いた由緒ある道も、「便利」という一字にはかなわない御時世、それが現在なのだと思う。寂しい限りだが、もう、どうすることもできない・・・。

 そんな失いかけつつある大事なものを発見した喜びを充分感じさせてくれたのが、今回の子持懸けコ−スであった。山崎清憲氏は「土佐の街道」(昭和53年刊)の中で、子持権現を「こましゃくれた岩峰」と揶揄しておられるが、林道側から見れば確かにそれは言い得て妙な表現である。しかし、前後数ヶ所の鎖をよじってその天辺に立つ時はじめて、この山がまさに堂々たる大山の風格を備えていることを知ることができるのである。そして、初めて石鎚山に登ったときのような、あの初々しい清らかな感動を再び味わうことができるのである。

                      (写真:伊吹山からの瓶ヶ森と子持権現)