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音楽のある生活

1993年卒 トランペット 細川光之

 以前イギリスにいたときに、クラシックのコンサートのパンフレットをみて値段表の中に「失業者割引」なるものがあるのにひどく驚いたことを覚えている。そのときは、さすがは世界最初の福祉国家イギリスだな〜、などと思ったものであるが、よくよく考えてみればそれはちょっとおかしいことに気付いた。どのような社会福祉が好ましいかは議論の分かれるところとしても、少なくとも効率性という観点から見た場合、福祉を手厚くするのであればコンサートのチケットの値段を割り引くなどという回りくどいことをしなくとも、失業者給付を拡張すればいいだけの話であるからだ。その後、多忙や環境の変化などがあり、そのことをそれ以上深く考えることはなかったのだが、最近まったく別の次元からこの問題を考えるようになった。それは、音楽を聞くということは人として当然の行為であり、そのときに失業状態であるかどうかなどは関係ない、という社会的コンセンサスがあるのではないか、ということである。そういえば日本国憲法第二十五条第一項にも、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とある。これは、いわゆる生存権といわれる条項で民主国家であれば同様の規定が必ず存在するべきものであるが、彼らにとっての「健康で文化的な最低限度の生活」には音楽は必要不可欠である、とするならばこの問題の解釈も容易である。例えば日本でも失業中だからといってTVをみて文句を言われることがないのと同じことである。
 翻って日本の状況を考えてみたい。オーケストラに限らず、プロ野球でもJリーグでも広い意味での文化活動に実際に足を運ぶことはなんとなくいわば「贅沢」と考えられているのではないだろうか。贅沢であると考えるということは、それらの活動を特別な経済的行為だととらえている、ということである。日本人の音楽家で世界的に認められている人は少なくないし、プロ演奏家全体の平均を取ってみてもそれほど遜色のあるものではないだろう。にもかかわらず、日本のプロオーケストラが世界のトップオーケストラと並ぶような評価を得るにいたっていないのは、このあたりが原因なのかな、と思わざるをえない。これに対して、例えばアメリカのオーケストラがうまいのは豊富な資金力にまかせて世界中から優秀なプレーヤーを集めているからだ、という指摘があるが、それならそれで、そもそもなぜそこまで資金を投入するのかという問いに答えねばならない。資金の話が出たのでついでに指摘しておくが、欧米ではオーケストラのような組織でもかなりの苛烈な経営努力がなされているという。このような、きわめて資本主義的な側面を持ちながらも、失業者割引のような社会福祉的な面も同時に持つという、一見矛盾するようなことが調和しているところにこそ、やはり社会が持つ文化への深い理解と愛情を感じるのである。
 この問題について語りだしたらきりがないので、このあたりにしておくが、これらのことを考えると、アマチュアとして(プロとして活躍されている方がいることは存じていますが・・・)肩肘張らず音楽を一生の友として生きてゆくことを許されたわれわれは幸せである。最近、「勝ち組」、「負け組」といったような言葉をよく聞く。経済的な豊かさや、より高い社会的地位を求めることは悪いこととは思わないし、私だってよりよい仕事を得るための努力は惜しんでいないつもりである。だが、その結果、週末に仲間と楽器を演奏し、酒を酌み交わしながら音楽談義に花を咲かせるというようなささやかな楽しみを生涯にわたってあきらめなければいけないとするならばそれは本末転倒というものである。
 近年の日本の閉塞感の原因は、個別の制度・政策に内在する問題だけでなく、日本人の意識の問題、すなわち、個々の利益の追求のあまりそれぞれの活動に社会的な側面があることを忘れてしまったことにあるのではないか、とする主張を最近よく聞くようになった。そういえば、サッカーのワールドカップのような大きなイベントのとき必ず、ありもしない経済効果の話で盛り上がる。政策担当者であれば話の種としてそのようなことに言及するのはまだわかる。だが、われわれ一般人としてはそのようなことに頭を煩わすのではなく、素直に世界最高峰のプレーに興奮し、自国代表の活躍に心を躍らせればそれでよい。その結果、われわれの中の残る感動こそが、それによって得られた最大の収穫なのだから。

 




  


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