第450回記念祝賀会

 記念講演「別子銅山の基地、東平・四阪島と赤石山系」

 今回の新居浜小児科医会は第450回の記念祝賀会として、「別子銅山の基地、東平、四阪島と赤石山系」のタイトルで、加藤文徳、松浦章雄、塩田康夫の三会員がスライドを交えそれぞれの思い出を語った。

1.四阪島(しさかじま)
    住友別子病院小児科 加藤 文徳

 過去における栃木県の足尾鉱毒事件と、愛媛県の別子銅山の煙害問題は、環境汚染が問題となった公害の原点といわれている。
四阪島は新居浜の沖に浮かぶ煙突の島である。明治38年、その煙害対策として新居浜からこの四阪島へ銅精錬所が移され操業を開始した。私は昭和28年四阪島で生まれ、昭和37年まで二度にわたり足掛け6年間、この島で生活した。昭和51年その銅精錬所の火は消えた。現在、四阪島への一般人の立ち入りは禁止されている。

2.東平(とうなる)
    松浦小児科    松浦 章雄
                   
 450回記念祝賀会ということで、小児医療とは関係の無い話題になった。
 新居浜市は別子銅山とともに発展してきた町である。一方、鉱山の町では、鉱山の盛衰とともに町の消長があり、大きな集落がそっくり無くなってしまうこともある。別子銅山でも、旧別子・東平・四阪島がその例である。
 東平は、別子銅山の鉱脈を擁する赤石山系の北側の中腹で、標高700mの辺りに位置する。明治時代の終り頃から大正時代は別子銅山の中心であった。住友鉄道の終点から徒歩で山道を2時間かかる山中に、3,000人の人が住み、活気ある社会を形成していた。私は昭和16年から21年まで(1歳半から小学校1年生1学期まで)東平に住んだ。想い出話とともに往時の写真などで東平を紹介した。
 東平は、昭和43年(1968年)、銅山の閉山とともに人家全てが無くなり、杉林と化したが、20数年後、マイントピア東平として再開発された。昔の学校跡に宿泊施設「東平自然の家」、坑内電車駅跡に「東平歴史記念館」が出来ている。市民にとって、自分の町の生い立ちを知る遺跡と言えよう。
3.赤石山系
   しおだこどもクリニック 塩田 康夫

 新居浜の背後にそそりたつ赤石山系は、最高峰でも千七百メートルほどだが、四国の他の山域にない大きな特徴を持っている。その1は、別子銅山の産業遺跡を有している。その2は、煙害を克服するため植林したカラマツ林が根づいている。その3は、西赤石にはアケボノツツジ、銅山峰にはツガザクラ、アカモノの大群落がある。その4は、東赤石には多種類の高山植物が群生している。その5は、ニツ岳から東赤石に至る峻険な岩峰群を有している。
 今回演者の属する山岳会の、故人になられた岳友のスライドを中心にこれらを紹介した。(文責 加藤 文徳)



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