日本百名山完全踏破!

中央アルプス空木岳2,864m

平成27年10月12日

・・亡き妻に捧げる・・

                 マナベ小児科  真鍋豊彦

〇はじめに

 NHKテレビで「日本百名山」、「実践日本百名山」が毎週放映されている。田中陽希がグレートトラバース~日本百名山一筆書き踏破~ で視聴者の度肝を抜いたと思ったら、昨年は二百名山一筆書き踏破達成、日本中が大いに沸いた。

 深田久弥が昭和39年7月、日本の百の名山を選び新潮社から『日本百名山』を発刊した。今では日本百名山といえば深田久弥の『日本百名山』であるが、医学生時代(昭和30年~34年)にはまだ少数の者しか知らなかった。

 昨年10月、日本百名山最後の中央アルプス空木岳に登った。ちょっと大げさであるが、この機会を逃すと日本百名山完全踏破は成らないと思い、なんとしても実現したかった。

 その経緯やエピソードを中心に簡単にまとめてみたい。

〇一念発起

 平成13年11月、40数年ぶりに登山を再開した。67歳誕生日直前であった。

 開業後は専らゴルフを楽しんでいたが、前立腺全摘除術を受けた後、たまたま旅行社主催の三嶺登山ツアーに妻と参加し、下山中に急に膝が笑い歩けなくなった。それまで毎日1万歩以上歩き続けていたので大きなショック、これを機に一念発起、近場の山を中心に登り始めた。それが高じて日本百名山踏破に繋がるとは、神のみぞ知るであった。

 登山再開以来、登頂写真と登山記などを丹念に残しながら、山関連の雑誌や単行本を片っ端から読んだ。ガイドブックや地図も各種揃えた。

 その中の一つに深田久弥著「日本百名山 新装版:新潮社」もあったが、特に関心はなかった(17年9月11日読了と鉛筆書き)。

 最初の5年間の登山頻度は年30回(日)程度、平成20年を境に回数はウナギ登り、最多登山は22年の100回、3、4日毎に入山したことになる。これは20年10月から土曜日を休診とし、土日をフルに利用した山小屋泊の登山が増えたからである。

 まず「愛媛県の山」(17年10月)、「四国百名山」(19年11月)、「愛媛ゆうゆう山歩き」(20年11月)、最後は「四国百山」(22年10月)の順に踏破した。

 その間、石鎚山、西赤石、寒風山、伊予富士、皿ヵ嶺、伯耆大山などは積雪期登山も繰り返すようになり、関心が次第に四国以外の山に傾いていった。久住山、伊吹山、劔岳、白馬岳、北岳、白山、谷川岳などにも登り、いつの間にか「日本百名山」を意識するようになった。

〇空木岳と木曽殿山荘

 忘れもしない。平成27年10月10日(土)、登山開始から8時間余り、木曽殿山荘(きそどのさんそう)にやっと辿り着いた。夕食時、配膳完了とともに管理人が20人余りの宿泊者を前に、「今からサプライズがあります」と。

 何のことかと奥の席で耳を澄ませていると、「明日、日本百名山完登予定者がいます・・四国愛媛の真鍋さん・・記念品を差しあげますので前へどうぞ」と。聞き違いかと思った。ウォ-と拍手喝采、びっくり仰天。呼ばれるままに前に進み、紙袋を有り難くいただいた。

 紙袋を手に高々と挙げ、「・・齢80歳10ヵ月、現役の小児科医です。昨日午後5時半まで診療してやって来ました・・」とお礼の言葉を述べると、再び、ウォ-と拍手喝采。

 紙袋の表に「真鍋豊彦様 日本百名山完登おめでとうございます これからも良き山行を!! 2015.10.11 木曽殿山荘」と書かれていた。記念品は日本百名山名を白文字でプリントした黒布のTシャツ、動転していたため中身を皆さんに披露するのを忘れるという大失態を演じてしまった。

〇空木岳山頂に立つ

 空木岳(うつぎだけ)は中央アルプス(木曽川と天竜川にはさまれた木曽山脈)の中ほどに位置し、深田久弥が”山名が美しく優しい”と称したが、荒々しく険しい山である。

 当初は伊奈川ダム・金沢土場経由で入山、木曽殿山荘1泊、翌日空木岳登頂・南駒ヶ岳往復、駒峰ヒュッテ1泊、下山は池山尾根コースの予定であった。

 木曽殿山荘でサプライズを体験、いい気分で翌早朝の登頂準備としていたところ天候急変、夜半から暴風雨となり、明け方まで不気味な風の音と小屋の揺れに悩まされ、ほとんど眠れなかった。

 朝食のとき管理人から、色々と注意があった。全員一先ず出発延期、待機していると、地元警察から「まとまって出発した方が良い」との連絡があったと告げられた。

 多くの人が日程の都合で8時に一斉に出発、残った3人が天候の回復を待った。

 当日は山小屋仕舞いの日、管理人夫婦と息子の3人が手際よく布団などを2階の大きな部屋の真ん中にまとめ、積み上げるのを傍観するだけ、午後になっても風雨は一向に収まらなかった。やむをえず想定外の”沈澱”を決めた。その間、退屈しのぎを兼ね、片づけられた部屋の中を歩き回り1万歩、日課は何とかクリアした。

 翌早朝、窓をそっと開けてみると、風はまだビュービュウ吹いていたが満天の星、視界良好、これ幸いとヘッドライトを点けて出発した。

 山荘からの登りは知る人ぞ知る。鋭い岩峰と急登、溝状の岩壁、鎖場、梯子、二つのピーク越えを強いられる。頂上付近は花崗岩の巨石が点在する。

 朝食4時40分、登頂開始5時10分、寒風と霧氷に彩られた岩峰を喘ぎあえぎ登り、振り返ると木曽殿山荘が下方に小さく見えた。山頂到着7時20分、やっと登頂に成功、予定より40分遅いコースタイムだった。

 昨夜、日付を11日から12日に訂正、用意したプリント紙「日本百名山踏破 感謝!」を胸に記念撮影、感無量であった。尤も、出来上がった写真の顔つきは笑顔ではなく、引きつっていた。

 山頂に登山者の姿はなかった。360度の展望、早朝登山者だけが目にすることができる空木岳のシルエット”影空木”、そのはるか先、北西方向には一目でわかる御嶽山のどっしりとした山容、ぐるりと見渡すと、数年前に8泊9日をかけて縦走した南アルプスの山並み、さらに富士山、宝剣岳、今回諦めた南駒ヶ岳など山座同定をじっくり楽しんだ。

 後日いただいた管理人さんからの手紙に、「・・日本百名山完登 おめでとうございます 当日朝は 第1ピークが白くなっていましたので少し心配していましたが すれ違った若い人に聞いた所 元気に登っておられたとのことで安心いたしました・・」と。管理人さんが心配してくださっていたことを知り、改めて感謝した。 

〇閑話休題 

 ・木曽殿山荘:空木岳を北西側に下がったところに「木曽殿越」と呼ばれる鞍部がある。平安時代末期に木曽義仲(源義仲)が山越えしたという伝説が残っているが、真偽のほどは定かではない。これに因み山荘名としたという。

 ・ 義仲の力水:木曽殿山荘から木曽側へ10分ほどの水場、水量は少ないが美味い。この名称も木曽殿山荘とともに登山者に親しまれている。

〇駒峰ヒュッテ

 7時30分、池山尾根経由で下山開始、すぐ下の駒峰ヒュッテ(こまほう)に8時40分着、ちょっと立ち寄り、気がかりであった前日の登山者の消息を尋ねたところ、全員無事ヒュッテを通過、下山したとのことであった。安心した。

 彼らから耳にしていたのか、女性管理人から百名山踏破記念にと、”空木岳・駒峰ヒュッテ”とプリントした藍色の手ぬぐいをいただいた。  

 駒峰ヒュッテ管理人といえば、忘れがたい思い出がある。

 23年8月6日、木曽駒ヶ岳・宝剣岳から空木岳縦走中、管理人(地元山岳会員が数日で交代)と何回かEメールのやり取りをしたが、下山後の送受信は次のような内容であった。

 ・「愛媛の真鍋です。昨朝5時前に宝剣山荘出発、宝剣岳越えで空木岳へ向かいましたが、縦走開始間もなく、ガスで何も見えなくなりました。大気不安定の予報が出ていましたので、無理をせず濁沢大峰手前から引き返しました。晴れた日に再度縦走したいと思っています。またお世話になると思いますが、その節はよろしくお願いいたします・・」

 ・「遠路よりの登山ですが中止して良かったと思います。昨日、今日と昼過ぎから激しい雷雨でした。雷は3日~4日続きますので10日頃より安定すると思います・・」

 2年後の25年7月29日、韓国登山者20人が悪天候の中、この縦走路で4人が遭難死した。このパーティーは前日、木曽殿山荘に宿泊、宝剣岳へ向かい遭難した。当時、大きなニュースになったが、他人事とは思えなかった。

〇迷い尾根、小地獄・大地獄

 駒峰ヒュッテから左の駒石・池山尾根コースを辿り、駒ヶ池へ下りた。写真などでお馴染みの駒石、傍に下り立つとその大きさに圧倒された。このコースは長いだけでなく、迷い尾根、小地獄・大地獄という危険なヤセ尾根歩きがつづく。落差のあるいくつもの木段や長い鎖場、梯子などがあり、過去には転落や滑落事故が発生したという。今はよく整備されているとは言え、一歩誤れば滑落必至、慎重に下りた。

 小地獄をトラバース中、登ってきた二人組に会った。土居町のKさん夫妻であった。お互いにびっくり仰天、先を急いでいたため、ほんの少しだけ言葉を交わした。以前、赤星山で会ったがまさか空木岳遠征登山で会うとは!

 山では時々このような思いがけない出会いがあり、大切にしている。

 小地獄・大地獄を急下降しマセナギへ、ガイドブックでは駒峰ヒュッテから2時間50分で着くというが、2時間15分で着いた。かなりのハイピッチ、ツガの大木が印象的。そこからは樹林帯をひたすら下る。長かった。

 池山・空木岳分岐から携帯電話が通じるタカウチ場まで、足は極めて重かった。やっと12時15分に着く。そこで予約していたタクシー会社に確認電話、林道終点まで最後の35分、やれやれ。

〇おわりに

 当初の意図から離れ、メモ書きなどをただ拾い、繋ぎ合わせた冗漫な登山記となった。学生時代の4年と登山再開後の14年を合わせると18年間、北・中央・南アルプスはもとより、最北の礼文・利尻島、南は屋久島まで遠出した。

 空木岳下山後、夜遅く帰宅すると目の付くところに妻が”お帰りなさい 百名山踏破 おめでとう”と祝いの言葉を筆書きしていた。珍しいことであった。悲しいかな、2ヵ月後の本年1月初め、妻は急逝した。

 学生時代の先輩・同輩などの多くはすでに他界、共に往時を語り合う仲間はほとんどいない。今では新たに何人かの山友達に恵まれ、情報交換や同行登山をしている。山での出会いは一期一会、これからも大切にしていきたい。

 最後に、山歩きで出会った人たちの激励、無二の山仲間MB女史の支援、亡き妻や家族の理解と協力に改めて感謝する。           (平成28年5月18日記)