ENCOUNTER TO ROB MUZZY : ロブマッジー氏との邂逅
ROB MUSSY氏は今では伝説ともいえるホンタのダートトラッカー、
「 HONDA RS600D」のプロトタイプのエンジン開発
を手掛けた人である。
当時、まだダートトラック部門ではノウハウの蓄積がなかったアメリカンホンダからの依頼を受け
新たな命を吹き込まれたこのRS600Dは、それまで王座をほしいままにしていたハレーの牙城をいきなり切り崩しにかかった。
快進撃の始まりである。
そして翌年の83年、遂にリッキーグラハムのライドによってダートトラック部門で
悲願のAMAシリーズ初のタイトルをホンダチームにもたらした。チームメイトのババ・ショバートもランキング2位に入り
絵に描いたようなワンツーフィニッシュであった。

しかし彼のめざましい活躍はこれだけに留まらない。
他方では
スーパーバイク部門でウェインレイニー、エディーローソンのマシン開発を手掛け、いずれもシリーズチャンピオンに導いた。彼の輝かしい数々の業績のなかでも、このAMAの主要なレースだけを取り上げただけで、実に30以上のタイトルを手中にしているのである。
そして
その内容は実に多岐にわたり、レースのカテゴリーばかりかマシンのエンジン形式をも問わない。85年、スーパークロスでロンラシーンがチャンピオンとなった時も彼が2ストロークのエンジンチューニングを担当した。
さらにSORE BAJA1000でも彼のマシンが度重なる優勝を果たす。もう枚挙にいとまがないのである。
そして極めつけは93年の鈴鹿8時間耐久レースだ。
チームカワサキの強力なオファーによりエンジン担当主任として参戦。
この大一番でも、大方の予想に反して見事な番狂わせを演じ、終わってみれば常勝ホンダからこの年、久々の優勝をもぎ取ってしまったのである。
まさに天才と呼ばれた彼の面目躍如、我々の眼前でもマッジーパワーの底力を見せつけた。偉大な優勝請負人、強運を呼び寄せるその不思議な能力の持ち主。彼のいくところ、常に勝利の女神が微笑む・・・。
ロブマッジーにまつわる様々な修辞と定説は、さらに揺るぎないものとなった。各ワークス陣をはじめ、
あのPOPさん然り、彼こそはライバルとなるエンジニア達の誰もが最も恐れる存在であった。
1992年の春、この才能に満ち溢れた恐るべき男に私は一度だけ会ったことがある。
以前から彼のファクトリーがヘスペリアのXR’S ONLY社と僅か数百メートル離れた場所にあることは知っていた。が、いつも天才は多忙で不在の時が多く、なかなか会う機会に恵まれなかった。
しかし遂に願いが適う時が訪れた。
この年の商用の滞在中にXR’S ONLYのマネージャーからMUZZY氏が今週は会社にいるとの連絡を受け、私はすかさずアポイントを取り付けたのである。
その前夜、私は年甲斐もなく興奮し、まるで遠く離れた恋人に久々に会う時のように胸が
ざわついた(笑)。そして記念すべき翌日の午後、約束の時間どうり彼を訊ね、案内された事務所のドアを開けた。
最初、正面の壁面の大きな棚に飾られた夥しい数の盾と、
きらびやかなトロフィーの広大な林が視界に飛び込んできた。
その前で一人の男が岩の塊のような巨躯を大きな椅子に深々と沈め、ゆっくりと葉巻をくゆらしている。揺らぐ紫煙のなかで、鋭い眼光と日本の雑誌でもおなじみのトレードマークのカイゼル髭が見えた。
自信をみなぎらせ、不敵ともとれる笑みを浮かべたマッジー氏の姿がそこにあった。・・・
これがオーラというものなんだろうか。
私はその瞬間、彼の全身から放たれる透明の強い波長のようなものを感じた。と同時に自分が今、現実に彼の前に立っていることの認識そのものが疑わしく、希薄になっていくような不思議な感覚に襲われた。今振り返ってみれば、
単に
極度の緊張のあまり酸欠状態に陥り、失神寸前になりかけただけなのかもしれない(笑)。
とにかくしどろもどろになりながらも、
私はなんとか自己紹介でXR'S ONLYの日本のディストリビューターであること、エンジニアであり卓越したチューナーである彼のめざましい活躍に心から敬服していることなどを述べた。
アメリカは飛ぶことの自由を存分に享受できる国だ。
小規模ながらこのヘスペリア飛行場でも様々なスタイルの小型機がひっきりなしに離着陸を繰り返していた。
操るパイロット達の性別、年齢も実に多様である。ライセンスの取得費用も僅か60万円ほどで済むらしい。
画面の左側にテイクオフの助走を始めたセスナ機が見え
る。嗚呼、私も飛んでみたい。ホント、羨ましいナ・・・。
その後、彼と何を話したのか今では漠となった部分が多いが、事務所の前のパーキングに鎮座していた一機のセスナ(こんな光景はいかにもアメリカ的だ)のことで話が弾んだのを憶えている。
それは彼の愛機のひとつであり、アルベーカーとも
晴れた日にはよく二人で飛んだそうである。
彼の話によると、自分は実はバイクに負けないくらい飛行機のマニアでもあり、
ここに引っ越してきた理由の一つに、民間の飛行場が私道を隔てたすぐ目の前にあって、いつでもすぐに飛べるからだということだった。
「確かにアルはダートバイクに乗ると信じられないくらい速かったが、パイロットとしての腕の方もプロ顔負けで、心底、フライトを楽しんでいたよ。操縦桿を握ると、まるで12歳のキッズみたいに嬉しそうな顔をしてね・・・」
テイクオフしていく複葉のセスナを事務所の窓ごしに眺めながら、彼は故アルベーカーのことを話し始めた。

7歳年下のアルベーカーは彼を偉大な師として敬い、時には血を分けた兄のようにも思っていたようである。そして彼は
マッジー氏からエンジンチューニングの理論とそのノウハウも徹底的に教え込まれ、
計り知れない恩籠を受けたのである。

私はマッジー氏の話を聞きながらある感慨に耽った。アルベーカーはカルフォルニア生まれ。一方、マッジー氏は大陸の
その正反対の遥か彼方、東部に位置するミシガン州の出身だ。しかし、この広大な隔たりを経ても、人はいつの日か自ら求める人に出会い、深い絆を結ぶものなのだと。
やがて充実のひと時は瞬く間に過ぎ、お別れを言う時が来た。
最後に私は彼に「ポーティング作業をするにあたって心がけていることは何ですか」と尋ねた。
実はこれが一番聞きたかった
のである。すると彼は、
「素っ裸になって自分がそのポートの中をくぐり抜けることを想像してみてくれ」
とハスキーな
独特のバリトンで答えた。
面食らった様子の私を見ながら、天才はその広い双肩を揺すりながら豪快に、笑った。