キースラガー(佐々連鉱山)

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 愛媛県伊予三島市金砂町小川山にあった佐々連鉱山の古いキースラガー標本。拳ほどもある重量感溢れるキースラガーだが、品位的には銅成分1〜2%、別子ではいわゆる“シロジ”と呼ばれているもので、浮遊選鉱が導入されるまではズリに打ち捨てられていた低品位鉱に過ぎない。しかし、この標本を佐々連鉱山の歴史的な価値ある証人としているのは、添付された古いラベルである。ラベルには「含銅黄鉄鑛 愛媛縣佐々連鉱山二番上銿引立」と書かれ採掘場所がピンポイントで同定できるとともに、漢字が旧字体であることから、戦前に東京の「岩本鑛産物商会」によって販売されたことがわかる(「ヒ」は金偏に通なのだが、未だパソコン文字に登録がないため、よく似ている「銿」で全文代用した。乞う!ご了承)。また、「引立」とは坑道の切羽の別名である。

 そこで、今回は戦前戦後の佐々連鉱山の概要を述べてこの標本の持つ“よすが”とし、20103月に佐々連鉱山を案内していただいた住友建設の元佐々連所長 A氏からお伺いした佐々連鉱山の極めて珍しい自然現象について小生所有の斑銅鉱標本を提示しながら、次回、稿を改めてご紹介したいと思う。

 

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 佐々連鉱山は、東から西にかけて6つの鉱床が並んでいる(上図)。すなわち東から、金立坑、金剛坑、佐々連坑、金泉坑、新泉坑、金砂坑である(書物によっては金立銿、金剛銿などとも記されているが、ここでは「坑」に統一した)。稼行時代の報告によると、この6つの鉱床はもともとひとつであったが著しい向斜褶曲によって数条に引きちぎられ現在の姿になったと推測されている。また各鉱床を繋ぐ「佐々連通洞」は金砂坑上部、「上銿」と書かれたほぼ真上に当たり、今も鉱山跡にその堂々とした通洞口を見ることができる。このうち最も古い鉱区は、佐々連坑で、金山谷旧坑口には「元禄二年大坂屋開坑」と岩盤に字が彫られていたと伝えられているが、明治期の加背拡げの際に破壊されてしまったのは極めて残念という他ない。実際に佐々連坑上部には、掘鑿に際して火薬を使用しない銀切の採掘箇所が残っていることや、18世紀に編纂された住友家の「宝の山」にも記載があることから、優秀な露頭があるために相当古くから開発されていたと考えられる。しかし、近代的な鉱山として記録に残るのは明治30年からで、まず東宇和郡の三好春吉が佐々連坑の再開発したのに始まり、その後、同郷の渡辺祐常が経営に加わって積極的な探鉱を実施、明治40年頃、金砂坑の露頭を発見、同43年に至って採掘鉱区を設定した。この頃が佐々連鉱山の黎明期で、当時は金砂鉱山と称し、さっそく金砂一号坑、二号坑下りを開削し、年間粗鉱900tを馬背運搬で法皇山脈を越えて伊予三島港に送り出したという。

 金立(きんりつ)坑は大正5年に、富郷村の加藤善右衛門が山神森の南方渓岸で露頭を発見したことに端を発し、同年中に神戸の岩城商会の所有となり金立の名を付して開発に着手した。大正7年には金砂鉱区も買収し、「岩城鉱業株式会社」と改組して、順次、金立一〜四号坑、金砂二、五号坑、天長坑、地久坑、さらに佐々連大鉱体の補足にも成功、大正12年、大切通洞(佐々連通洞)完成を期にすべてを合わせて、「佐々連鉱山」(背後の佐々連尾山に因む)と改称し戦後の発展の基盤が出来上がった。

 総帥たる岩城卯吉は、「神戸に在住し船会社を経営、第一次世界大戦時に船成金として大金を掴み、その金を鉱山経営にかけたようであるが、素人の悲しさと言うか投資の限界と言うか、個人経営の小企業的経営であまりよくなかった。」(佐々連鉱山小史)ようで四苦八苦しながらも存命中はなんとかその強運に任せて経営を持続させた傑物であったようだ。しかし、昭和に入って吹き荒ぶ恐慌の嵐に経営は風前の灯火の如く、金砂、金立坑は休止となり、佐々連坑だけが命脈を保つ状態に、二代目の古三郎は堪らず三菱に援助を要請するも好況には転じえず、遂に昭和14年に至って鉱業権は完全に住友へと移行した。「日本の鉱床探査」(日本鉱山地質学会 1981)によると、金砂「上銿」が発見されたのは、そうした佐々連の経営が住友に変わる移行期の昭和12年である。以前からの金砂上部は「本銿」と呼ばれ、その東部に黄鉄鉱鉱染鉱が連続し、一部にかなりまとまった鉱況を示したため、改めて「上銿」と独立して銘々されたのである。品位は決して良くはなかったが、昭和14年に山元での浮遊選鉱場が完成したため採掘を続けることが出来たのは実に幸運であったと言えよう。採掘が次第に進むにつれて「本銿」と「上銿」は一体となって「中銿」となり、品位が著しく高まる「ナオリ」と呼ばれる同斜褶曲帯が捕捉され鉱況は次第に好転し、佐々連鉱山はようやく住友の一翼を担う中堅鉱山としての地位を確立することになるのだが、それは戦中戦後の乱掘による荒廃と財閥解体という幾多の試練を乗り越えた後の話である。

 そうしたことを思いながら標本ラベルの「二番上銿引立」を改めて振り返ると、佐々連の坑道水準は大切通洞を0番とするので、場所的にも現在の通洞直下わずか60mほどの切羽で、おそらく昭和123年に採掘された「上銿」開坑初期の鉱石と考えられる。この時期は住友がすでに経営に介入を始めており、戦後は金砂坑が佐々連鉱山の採掘中心となることを思えば、まさに住友佐々連鉱山発展の原点とも言うべき礎えの鉱石と言えるのではないだろうか・・・これが、小生がこの標本を慈しむ最大の理由でもある。

 

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 さて鉱山は、戦後の混乱期を経て、昭和25年に住友金属鉱山株式会社佐々連鉱業所として再スタートを切った。とはいうものの佐々連坑はすでに掘り尽くされ、金立坑も荒廃が著しかった。頼みの綱は低品位ながら鉱況が衰えていない金砂坑のみで、そこを中心に探鉱と下部開発に力を注ぐことになった。昭和3040年代前半にかけては、常に経営合理化と坑道拡張が積極的に行われた大切な発展期ではあるが、ここでその複雑な経過を長々と説明するのは目的でもないし余裕もない。本HPを訪れて下さっている諸氏も、他書に書かれた歴史ばかりを“又写し”するのは些かウンザリだろう。もし、詳しく知りたい方は下に若干の書物を挙げておいたので参考にされると良い。特に「佐々連鉱山小史」は戦後の佐々連を詳述した唯一の公的書物というべきで編年体で簡潔に纏められている。ただ、入手が容易でないのが唯一の難点ではあるが・・・

 とにかく鉱業所が一丸となって探鉱に力を注いだ甲斐あって、昭和27年の「新銿」発見を皮切りに、昭和28年には「金泉坑」、昭和34年に「金剛坑」、昭和36年には「新泉坑」などが次々と発見されていった。特に「金剛坑」は地表に露頭が存在しない完全な潜頭鉱床で、探鉱技術者は新鮮な驚きと喜びを以ってこれを迎えた。いま試しに別子から白滝、佐々連までの地質図を拡げてみると、この地区に点在する銅鉱床は、「富郷向斜」と呼ばれる三縄層が大きく南にS状に湾入した縁にすべて存在しているのがわかる。別子、筏津、白滝、下川鉱床は整然と等間隔に並んでいるのだが、下川から佐々連までは目ぼしい鉱脈がまったく存在しない(上図)。さらに別子から下川鉱床は深部に行くに従って徐々に潜りながら北側に振れるが、佐々連では逆に南側に振れている。これはもともと一直線上に並んだ鉱床が、形成後に大きく褶曲した結果であると推察できる。そうすると下川と佐々連の間に、未知の鉱床があるのではないかと考えたくなるのは当然の帰結であろう。そんな中、佐々連で「金剛坑」という完全な潜頭鉱床が見つかった。おまけに層準探鉱で下部に品位が上昇する「ナオリ」があるようだ、ということになれば佐々連周辺の深部ボーリング調査を実施しようという機運がいやが上にも昂まるのも道理で、その結果、国(金属鉱物探鉱促進事業団)をも巻き込んで10年計画で行われたのが「A地区探査ならびに白髪山広域・精密調査」である。「A地区」とは、白滝鉱山から佐々連鉱山までの富郷向斜を示している。これは四国の銅鉱山が生き永らえれるか否かを決定する、鉱山会社の命運を賭けた最後の極めて重要な大事業でもあったのだ。実施する技術者の頭には常に佐々連の「金剛坑」があったに違いなく、同じ潜頭鉱床の発見を今か今かと待ち続けたことだろう。しかし、幸運の女神というか、鉱山の守護神 大山祇神は、彼らに微笑みかけることは遂になかった。出された結論は、「A地区にもはや採算性のある鉱床は存在しない。露頭の鉱況が悪い鉱床は下部でも悪い。」というもので、“夢”の未知鉱床はすべて幻に終わったのである。別子に“閉山”という止めの引導が渡されたのは正にこの時点(昭和44年)であったと言うこともできよう。それでも、佐々連鉱山が昭和54年まで存続できたのは、地道な探鉱による戦後の新鉱床発見と「ナオリ」という富鉱化のおかげというべきで別子亡き後の経営的打撃を吸収する重要な役割を演じた。昭和47年の別子閉山以降もダメ押しの「銿先探鉱」や最新の電気探鉱なども行われはしたが、もはや見るべき成果もなく、日本最後の銅山は孤軍奮闘も空しく、周囲の閉山をことごとく見届けた後で、静かにその栄光の歴史に幕を下ろした。この佐々連閉山を以って、日本の銅山は名実ともに終焉を迎えたのである。

 その後、失意の内に新天地を求めて世界に散っていった技術者たちは、カナダのクチョ鉱床を始め、海外の新しい鉱山開拓にその真価を発揮し、日本の鉱山技術が世界トップレベルにあることを証明し高く評価された。四国で高い授業料を支払った技術者たちを、日々礼して已まなかった守護神 大山祇は決して見放しはしなかったのである。

 

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                               (旧佐々連鉱山事務所(左)と現在の事務所(右)、元診療所の建物である。)

 

 この記載にあたっては、「大日本鉱山史」(日本産業調査会 昭和15年)、「日本の鉱床探査 第1巻」(日本鉱山地質学会 昭和56年)、「佐々連鉱山小史」(佐々連鉱業所 昭和38年)、「嶺南」(合田正良 昭和59年)、「四国鉱山誌」(四国通商産業局 昭和32年)、「伊予三島市史(上)」(伊予三島市 昭和59年)、「山村文化 第20号」(山村研究会 平成12年)などを参照させて頂きました。さらにIT上に公開されている「自分史」「まぼろしの金砂」は佐々連鉱山で長年勤められた I氏の貴重な記録であり、小生も全文コピーして幾度となく読ませていただき、その都度、新たな感動にこころが震えるのを覚えます。ここに改めて敬意と感謝の意を表させて頂く次第です。

 

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