浄泉鬲
「住友家二代の祖 友以(とももち)は寛文二年(1662年)四月二十五日 五十六歳を以て歿し 法號は浄泉院 ことしその三百年忌に當る・・・このたび浄泉院のために さらに泉屋収蔵の禮器 キ龍文ゲン(註:当該漢字なし 饕餮文の一種)の鬲(れき)の部分を模し浄泉鬲と名つけ 有縁の各位に贈ることとした。」と由緒書にある。昭和36年のことである。友以は、“南蛮吹き”伝授の祖 蘇我理右衛門の実子にして、住友家初代 政友の養子であり、その金銀絞りの秘伝を実父より相伝され、本拠地を京都から大阪に移し吹所(精錬所)を設けて、住友400年の家業の礎を築いた人である。従って、住友家第二代に数えられる。別子開坑は、その孫にあたる友芳の代まで待たなければならないが、銅商としては、すでに頭角を現し、幕府より南蛮貿易の允許を受けた銅業者22人の内に入っている。由緒書は「この鬲の製作を 重ねて元東京藝術大學教授 丸山不忘氏に依頼したところ 別子産銅を主材として極めて見事に作られた 友成 識」で結ばれている。
住友家が、なにかの記念に別子産銅を用いるのは、ある意味では当然だが、そこには開坑以来、連綿と一系稼行を続けてきた畏怖と誇りが感じられる。開坑200年にあたる明治33年には、別子銅で皇居の大楠公像(高村光雲作)が造られた。また最近では2003年に、戦時中の金属供出で失われた新居浜の広瀬宰平の銅像(同じく高村光雲作)が再建されたが、その際にも、別子開坑200年記念の銅鏡が子孫の手により溶かし入れられたことは記憶に新しい。それほど、別子の銅は神聖な存在なのだ。
確かに、明治33年の段階では、出荷される精銅のほとんどが別子産のものであったが、昭和36年には、全体のわずか1/7程度に止まっている。このときすでに別子のヤマは末期的状態を呈し、住友の銅のほとんどは買鉱による外部鉱石が占めていたのだ。それでも住友は、瀕死の別子を長らえさせるために持てる力の全てを注ぎ込んだ。合理化に次ぐ合理化。探鉱に次ぐ探鉱。凡そ考えられるあらゆる最新技術の導入。果ては地底1000mからのコンベアー方式の鉱石移送を可能にした大斜坑の開削(わずか3年の命しかなかったが・・)。周囲から見れば無謀とも思われる施策のひとつひとつが、住友にとって神同然のヤマをどうしても蘇生させなければならないという一途な処方であったと言える。この別子銅の浄泉鬲にも、単に友以の遠忌記念というだけでなく、そんな住友家全体の、銅山に対する祈りにも似た願いが込められているように思われてならない・・・
しかし、人々の願い空しく昭和47年を一期として別子銅山は終熄した。そのとき訪れた第十六代家長 友成はいみじくも次の歌を詠んで別子閉山を悼んだ。
この鉱山(やま)を神とし仰ぎ幾代かも 掘りつぎて来しことの畏こさ
この山に幾代を承(う)けて蒙りし 恩をおもへば苟且(かりそめ)ならず