藍晶石

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 新居浜が日本に誇る鉱物、藍晶石。東平角閃岩中に灰簾石、ソーダ雲母とともに産する。ここの藍晶石の特徴は、なんといってもその見事な大きさで、一日かけて採集すればエンピツの太さ程度の標本なら見つけることができるかもしれない。また、藍晶石の名前の通り、眼の醒めるような鮮やかな青紫色の結晶もときたま見受けられる。和名の由来となった英名 Kyanite も、ギリシャ語の暗青色を意味するキアノスから命名されている。(「楽しい鉱物図鑑」 堀 秀道先生著 草思社刊)この標本も左右長が15cmほどの母岩に同程度の結晶がゆるゆると続く典型的なもので、一部にやや青色を呈する部位があるのも嬉しい。青色はなくとも、全体の灰白色のミルキーな味わいもなかなか捨てがたい。藍晶石を綿のように包みこむソーダ雲母の輝きも美しく、鉱物愛好者なら誰でも一個は愛蔵しておられる(と思われる)愛媛の代表的鉱物のひとつとなっている。

 

 藍晶石を世に知らしめた有名な論文「愛媛県別子鉱山付近の藍晶石の産状」(宮久三千年、石橋 澄、水舟淑朗)が、昭和36年の「地学研究 (Vol.12, No.7)」に掲載されているので、その一部を転載させていただく。

「・・四国における藍晶石の発見は古く佐藤伝蔵先生によって関川の転石から得られたのを初めとする。次いで鈴木醇教授も之を記載し、その後、堀越義一博士は別子鉱山地帯の一部である銅山越の東部や、国領川流域で産出を確かめたが、1957年に坂野昇平氏がそれを再確認し、光学的およびX線データを発表(地学雑 63-745, 1959) するにいたって別子の藍晶石の全貌は明らかになった。・・藍晶石はしばしば絹雲母に似る白色絹糸光沢の鉱物を伴うが、後者は坂野によってソーダ雲母 Paragonite と決定された。・・」

 従って昔から、この藍晶石を紹介する書物も多く、「鉱物採集の旅」(昭和50年)、「愛媛の自然」(平成4年)をはじめ、「櫻井鉱物標本」(昭和48年)、「今吉鉱物標本」(昭和58年)、「日本の鉱物(益富地学学館)」(平成6年)、「鉱物カラー図鑑(松原聰)」(平成11年)、「変成鉱物読本(加藤昭)」(平成13年)、「日本の鉱物(松原聰)」(平成15年)など枚挙に遑なく、多くがカラー写真入りで紹介されているのも採集を容易にする要因となっている。小生も、新居浜に来て、藍晶石のことを知ると、まっさきに益富先生の「日本の鉱物」を片手に現地に赴き、まずまずの標本を難なく得て、意気揚々と引き上げた記憶がある。さらに東平角閃岩の名前の通り、角閃岩帯は延々と東平以東まで続いているので、国領川の川原でなくても採集することも可能である。関川流域にも露頭があることが島根大学の櫻井 剛先生によって報告されている。一時、山中の道路拡張に際して多産した藍晶石が鉱物店に出回り、素晴らしい標本が案外安価に店頭に並んでいた時期もあった。最近はネットオークションも盛んで、自分で採集した標本が出品されることも往々にある。別にそれが悪いという訳ではなく、採集も個人の自由ではあるが、電気ドリルで大石まで粉々にして持ち去ってしまう現地の惨状は眼を覆うばかりである。

 

 宮久三千年先生は「鉱物採集の旅」で「こういう珍しい変成鉱物の産地としては、十字石の富山県宇奈月、ひすい輝石の新潟県小滝、苦土リーベック閃石の徳島県眉山などと並ぶ存在で、しかも三者が天然記念物または保護地域などになっているのに、ここだけはその指定がないのです。・・ただし、全国でもよくとれるのはここだけですから、たくさん一人占めするのはいけません。以前に、川の中に藍晶石のたくさんついた大きな岩石が一個あったのですが、いつのまにかなくなっておりました。たぶんトラックで持ち去ったのでしょうが、大ぜいの人の楽しみをうばった行ないですね。こういうのが許されるのは、博物館などにおさめるときだけ、と私は思うのです。」と嘆き、新居浜の先賢、稲見馬治郎先生も「・・(藍晶石は)、天然記念物として保存するねうちのある鉱物である。藍晶石の産地は限られているので、今発見されている産地を保存することと、新しい産地を見つけることが大切なことである。」(新居浜の地質)と警告されている。今から30年以上も前の話である。それから今日に至るまで、行政は産地に対してなにか手を打ってきたのだろうか?・・地元における関心の薄さの陰で、いつの間にか寂しく「絶産」の文字が並ぶことを、小生は密かに恐れるのである。

 

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(在りし日の宮久先生、愛媛鉱物界の碩学、そして皆川先生の恩師です。)

 

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