別子開坑200年記念書鎮
明治23年、別子開坑200年祭に際して関係者に配られた記念書鎮である。「住友史料館報 第29号」(平成10年)によると、記念式典は、住友友忠を迎えて5月26〜28日は惣開で、6月1〜3日は別子山村(小足谷)を中心に恙なく開催された。惣開では、第1日目には住友家の傭人や末家が、第2日には近傍の村長や助役、第3日は愛媛県知事や丸亀旅団長などが招待され、式典の後は宴会や花火大会が盛大に催され華やいだ雰囲気を演出したと伝えられている。稼人や出入方には「二百年祝祭」の文字を染め出した”手拭い”が配布されたというから、この書鎮も招かれた要人に配られた記念品のひとつであろう。小生のこの品は、当時、県の要職にあった旧家の倉に眠っていたものを骨董屋が買い上げたものだそうだから、おそらく記念に持ち帰ったまま100年以上、埃に埋もれて放置されていたのであろう。純銅だけに太平洋戦争中の金属供出や幾多の災害を免れて小生の手元に辿り着いたことを、とても幸運に思っている。本品は、皇居の“楠木正成像”と同じくほぼ100%、別子産銅でできており、新居浜市の広瀬宰平像鋳造に当たっても、子孫の手でこの書鎮が入れられて“別子の魂”が鋳込められた場面は、地元ケーブルテレビのドキュメントとして何度も放映され(下右)、まだ市民の記憶に新しい。また、同品は「別子銅山記念館」にも展示されているが、薄暗いガラスケースの奥の方に位置し、写真撮影も厳禁のため、その詳細を観察することはできない。そこで、この項では、書鎮の文様を簡単に解説し、そこから見えてくる住友家の起源について少し考えてみたいと思う。
(新居浜の広瀬歴史記念館に再建された広瀬宰平像と、炉に入れられる記念書鎮)
書鎮の文様は、「双鸞八稜鏡」という古鏡によくある背面文様を模したもので、外形を“八咫鏡”と同様の八角形(八稜)とし、中央の鈕(紐を通す突起)をはさんで、二羽の鸞(鳳凰かも・・)が優雅に向かい合っている。上部には玉杖を置きその両側には、裏牡丹(左)と茗荷(右)の二つの家紋を配している。鈕の下部には、おそらく別子の山並みであろう急峻な山岳を描き、外縁に沿って「別子銅山住友創立明治廿三年二百祀」と篆刻されている。さて、問題は刻まれた二つの家紋である。住友の記念品には大抵、誇らしく件の“菱井桁”が使用され、これがあたかも住友家の家紋と混同される傾向にあるが、これはあくまでも“泉屋”の商標であり住友家本来の家紋ではない。京都鹿ヶ谷にある住友本邸内の、祖先を祀る「芳泉堂」の幕や灯籠には、三つ茗荷紋が描かれているので、おそらくこの茗荷紋(下右)が住友家の“表紋”なのであろう。茗荷は“冥加”に通じ神仏の加護が得られるという習いから、神社や仏閣の家紋として多用される。住友家の創始者 住友政友が涅槃宗の僧侶であったということも関係しているのかもしれない。Wikipedia によれば、桓武天皇の曾孫、高望王二十二代目の後裔に平忠重と名乗る武士がおり、父の“順美平内友定”の一部を取って“住友”と称したのが最初と伝えられるから、家系の公称は「平氏」ということになっている。一方、もう一つの家紋である裏牡丹(下左)は、別名“住友牡丹”と呼ばれる特殊なもので、通常の牡丹を裏から見て“ねじり”を加えた文様で、一般的な家紋事典にも掲載されていない。牡丹紋は通常、藤原氏に関係する家柄が使用する家紋であるから、藤原氏との関係もあるのではないか?!・・と思っていたところ、それに関する面白い記述が2,3あったのでここに紹介し、愛媛に縁深き諸兄のご意見を賜りたいと思う。
以前、古書店で、昭和51年放映のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」のドラマストーリー(日本放送協会発行)を見つけて何気なく読んでいた。このドラマは、平将門と藤原純友が時の朝廷に反逆するという、いわゆる“承平・天慶の乱 (935~942年頃 )”を描いた平安時代の戦記物で、将門役に加藤剛、純友役に緒形拳を配し、その他、草刈正雄や多岐川祐美など大型スターのデビュー作ともなった伝説の大作で、愛媛県が舞台となった数少ないドラマでもあり、地元の漁船を総動員して海賊の大船団を再現するという大がかりなロケでも有名であった。原作者である海音寺潮五郎氏の「わたしの将門と純友」という対談の中に次の一文を見つけて、小生は驚喜して目を瞠り、何度も何度も読み返した。「・・純友は伊予においては大英雄でした。たとえば“住友家”という大財閥がありますね。あの住友家は純友の子孫だと名乗っています。住友家は元来伊予人で、伊予の別子銅山を開発して大富豪となったのですが、あの家のほかにも伊予には純友の子孫と名乗る家がだいぶあるそうです。もし、明治以前において彼が叛臣であると一般に信じられていたならば、たとえ本当に純友の子孫であっても、純友の子孫と名乗りはしないでしょう。英雄となっているから、誇りを持って、先祖であると名乗ったに違いありません。・・」。住友家の先祖が藤原純友?・・住友家が伊予人??・・・確かに“住友”と“純友”は同じ発音だから、これをモジッた単なるギャグでは・・と思いつつ、手持ちの太田亮先生の権威書「新編 姓氏家系辞書」(秋田書店 昭和49年)を紐解いてみると、「住友氏」の項に「なお、藤原姓を称する大阪の富豪住友氏がある。藤原純友裔と称し、別子銅山の経営で有名。」とあるではないか!!・・藤原純友は、藤原北家(藤原冬嗣流)の末裔とされているからそう考えれば、住友家が牡丹紋を使用するのも十分有り得ると納得されるのである。
次の疑問は、朝廷にとって逆臣である藤原純友が、果たして子孫を残すことが可能であったかどうかということである。確かに藤原純友は、小野好古の官軍に敗れ、伊予に舞い戻ったところを、伊予警固使の橘遠保に、息子の重太丸もろとも討ち取られたとされる。日本の歴史では、逆臣は親族や一族郎党も含めて誅殺され、仏門に帰依した幼い子供まで慈悲もなく殺されるというのが世の常だが、将門や純友については必ずしもそうでもなさそうだ。磐城の相馬氏などは、平将門の裔であることを堂々と公称しているし、肥前有馬氏や大村氏も、藤原純友の後裔である家系図を江戸幕府に提出している(寛政重修諸家譜)。下図は室町時代に成立した「尊卑分脈」(国史大系 吉川弘文館)の純友後の家系図だが、伊王丸以下、血統が連綿と続いていることがわかる。海音寺潮五郎氏も「伊予には純友の子孫と名乗る家がだいぶある」とのことなので、期待しながら「伊予の姓氏」(愛媛文化叢書33 昭和55年)という本を当たってみたのだが、話はそう単純ではなく、意外にも純友の子孫を称する家系はひとつもなかった。むしろ、朝廷側に立って純友を退治した水軍の子孫を称する家が多いのは、「勝てば官軍」的な日本民族的な思考からして、さもありなんとも頷ける。大名の相馬氏や有馬氏が逆臣の子孫を唱えるのは、武家としては非常に特異な例なのだろう。そうした中で、「我こそ純友の子孫なり。」と大言豪語するのは、やはり、伊予で銅山を大規模に稼行していく上で必要な住友の知恵だったともいえるのではないだろうか?
住友とは関係ないが、こんな話がある。明治維新の戦いの際、板垣退助率いる土佐軍は甲府攻略を命じられた。甲州は代々、徳川幕府の直轄領で、近藤勇の新撰組改め“甲陽鎮撫隊”も江戸から進軍しつつある。相当の抵抗が予想されたが、板垣は一計を案じ、「自分は板垣信方の子孫である。」と事前に喧伝し、甲府府民の歓迎を受け、難なく甲州を手に入れたというのである。板垣信方とは言わずと知れた武田二十四将に数えられる信玄の重臣、領民にも人気があり徳川の世となっても敬愛され続けた伝説の名将である。実際は板垣退助とは何の血縁関係もないのだが、退助は信方の人気をうまく利用して作戦を成功させたのであった。これと同じことが住友にも言えないだろうか?鉱毒や煙害を垂れ流す鉱山業は、まず地元民の理解を得ることが第一の条件となる。特に伊予と関わりのない大阪商人の稼行となると風当たりはさらに強まるだろう。そこで、藤原純友を引き合いに出し、「その子孫の仕事なのだから大目に見てくれ。」と民情に訴えたのではないかと考えている。そうした面からも、住友家の”したたかさ”というか、”怜悧さ”というものをまざまざと見せつけられるのである。
(「尊卑分脈」にみる純友の後裔と、「風と雲と虹と」の純友(緒形拳))
しかし、いくら純友の子孫だと主張したところで、それを裏付けるものがないと誰も信用はしないだろう。ところが新居浜市には、純友が立て籠もったと伝えられる城跡や純友を祀った神社が実際に存在するのである。文化年間に成立したとされる「伊予二名集」には、「生子山城」の項に、「或人曰、此城往古すみともが城と云、伊予掾純友籠りし所と云へり。」とあり、明治27年発行の「伊予温故録」にも、「生子山城 立川山村字生子山にあり 往古伊予掾藤原純友これに居ると云ふ。」と記されている。生子山城と言えば、松木三河守とかエントツ山が真っ先に頭に浮かんでくるのだが、エントツ山は、実は生子山城の”三の丸”に過ぎず、本丸は後方の標高300mの頂上にあったとされている(「四国の古城」山田竹系著など)。しかし、この配置も中世になってからで、純友の時代からそうであったかどうかは定かではない。また、生子山城には、もう一つ”麓ノ城”と呼ばれる支城があって、その位置は生子山の東方、西の谷川と種子川に挟まれた標高180mほどの通称”だんご山”と推定されている。この城は「中野の城」或いは「中尾城」とも呼ばれ、天正の陣で、生子山城主 松木三河守安村の嫡男、新之丞が立て籠もり、いずれも小早川隆景に攻められて討死したと伝えられる。その位置関係を下図に示しておいた。この“だんご山”の北斜面には、かって藤原純友を祭神とする「中野神社」が存在したので、麓ノ城こそが純友の居城であったと推測するサイトもある。また、このあたりの山間には、かの松木新之丞や越智(一条)俊村、さらにはなぜか和霊神社の山家清兵衛を祀った小祠も散在していたそうなのだが、明治42年に種子川集落の新高神社に、新たに「中野神社」として合祀されたという。
越智俊村は室町時代初期の武将で、「新居浜市史」によると、松木三河守の先祖に当たる。その経緯を簡単に記すと、時は足利三代将軍 義満の時代、管領を勤める細川頼之の勢力増大を恐れた義満は、突如、頼之を解任し政敵の斯波義将を新しい管領とした(康暦の政変)。これに憤って讃岐の宇多津に隠棲した頼之に対し、さらに義満は隣国の伊予守護 河野通直(通堯)に頼之追討を命じた。そのことを事前に察知した頼之は、機先を制し、喜び油断している河野通直に先制攻撃をかけた。一気に伊予になだれ込んだ阿波、讃岐の軍勢は生子山城に立て籠もる越智俊村をまず血祭りにあげた。その勢いに恐れをなした河野軍は総崩れとなり、混乱の中で通直もあっけなく討ち死にをしてしまう。驚いたのは将軍の義満である。頼之の智力と戦力は侮るべからず・・結局、将軍が頼之に詫びを入れる形で和睦を結ぶこととなった。強大な守護同士の争いの犠牲となった越智俊村は、ほとほと不運というか哀れというほかないだろう。
このように「中野神社」は、その祭神がことごとく非業の死を遂げた武士を祀っているという日本でも希有な御霊神社であり、その中でも藤原純友はもっとも古くから祀られた主神ということになる。「瀬戸内水軍史」(松岡 進 昭和41年)によれば、「藤原純友と日振島」(横浜雄幸)という本には、純友の“墓”も生子山にあると記載されているそうなので、本当にそうなら、ここは藤原純友が立て籠もり死んだ場所として、日本海賊史上、注目すべき聖地と言えるのでないだろうか? 残念ながら数年前の大雨で中野神社の建物は流失し、今は新高神社本殿にご神体のみが移されて合祀されているようだが、サイトの中で宮司さんも語られているように、一刻も早い社殿の再建を希望して已まない。
(右は中野神社の石標。「伊予掾 藤原純友を祀る中野神社」と記されている。)
四国の誇る歴史学者、喜田貞吉は、昔の”賊”には”剛胆な者”という意味合いがあり、純友がもう少し”怯懦”(臆病とか小物の意)であったなら、朝廷から昇進の誘いをそのまま受け、名誉の勇士として美名を後生に伝えていただろうと書いている。それほど、藤原純友は剛胆な”大賊”の”海賊大将軍”であった。同じ海賊でも、裏切りや誘惑で朝廷側に寝返って大名の血脈を保つことに汲々とする”小賊”とは志を同じくせず、純友は純友らしく大賊として死んだ。それゆえに民衆の支持を受け1000年の間、密かに祀り続けられてきたのだろう。そう考えれば、海音寺氏が「伊予に純友の子孫と名乗る家がだいぶある」と語っているにもかかわらず、武家の氏族に、純友を祖とする家系が少ないのも納得できる気がする。おそらく、時の権力に媚びへつらう武士に肯じない土着の商家や農家にそう主張する家が多いのかもしれない。もともと立川山村や種子川山村は、北条海賊の後裔の河野氏やその一族である一柳家の支配であり、それを大阪商人の稼行する別子銅山のために強引に幕領に領地替えされたのだから地元の反発は相当のものであったと推測される。住友家が堂々と純友の子孫と名乗るのも、やはりそうした背景を知っての賢い方便だったのではないだろうか?
この書鎮が配られた別子開坑200年記念祭の年は、住友家にとって最も苦難の年でもあった。当主である友親と友忠が相次いで亡くなってしまったからだ。仕方なく友親夫人の登久が臨時の当主代理を務め、娘の萬寿の婿養子として迎えたのが、徳大寺家の友純であった。徳大寺家は、西園寺家や三条家に連なる藤原北家閑院流なので、現在の住友家は紛う事なく藤原家の血筋を引き、先祖の系図は確かに傍流の藤原純友と繋がっている。それもまた奇縁というべきかもしれない。
(生子山城の三の丸(エントツ山)と本丸(左端のピーク)。冬の日輪が幻想的に輝く。)