小足谷集落 

  

旧別子では、もっとも下部に位置する小足谷集落。

旧別子登山口から10分も歩くと、接待館や醸造所跡があることで知られる。

明治になり、別子坑の水抜きとなる小足谷疎水が完成、その収銅所とともに繁栄した。

接待館は、その名の通り外来要人のための歓待および宿泊所で

明治23年頃、目出度町から移転してきたという。(左写真)

今はただ、赤煉瓦の塀が登山道脇に空しく残っているのみである。

右手の大きな屋根は醸造所。庭に大きな樽がいくつも並んでいるのが見える。(右写真)

江戸時代に酒類は、新居浜から仲持衆の手ではるばる運ばれていたが

途中で呑まれてしまうなどの事故が多く、結構高いものについたため

明治3年よりは灘から杜氏を招いて自前の製造に着手した。

名付けて「イゲタ正宗」、荒くれの坑夫をも酔わせるので「鬼ごろし」とも称された。

明治15年よりは醤油の製造も加わり大いに栄えたが、大正3年に廃止となっている。

ちなみに醸造所より上部が、山の手にあたる「上前(うわまい)」で、鉱山の上級職員が、

醸造所より下部が、下町の「下前(したまい)」で、商家などが多く密集していた。

  「小富士亭」や「河内屋」といった旅館や料亭もあったと伝えられるが写真では定かではない。

さて、この絵葉書がいつ頃のものであるか、という疑問であるが、

別の時期に撮られた上の小写真を見ていただきたい。絵葉書右下付近に写る橋のたもとであるが

ここに新しく2階建ての瀟洒な家が新築されているのがわかる。

家の主人は、泉半次という土木関係の方で、元新居浜市長 泉敬太郎氏の父親である。

それが水害後の明治33、4年頃の建築と伝えられているので、

絵葉書はそれ以前、おそらく明治20年代の姿を伝えるものと推測されるのである。