別子銅山 全景(東延) 

 

別子銅山全景の絵葉書である。といっても、東延と第一通洞南口の採鉱課建物しか写っていないが・・

中央の煙突部分が東延である。かのルイ・ラロックの「別子鉱山目論見書」に基づき

水没していた「三角(ミスマ)」の大富鉱体めがけて、傾斜49度の斜坑の開削に着手した。

明治9年のことである。まだ江戸の情緒残る山中に、近代化した蒸気機関を据え置くためには

まだ10年以上の努力と忍耐が必要であったが、広瀬宰平は不退転の決意でそれに臨んだ。

時を同じくして、銅山峰を貫通する第一通洞を掘り進め、東延への物資の輸送を容易ならしめた。

明治23年になって、ようやく蒸気巻揚機を設置。石炭火力による鉱石の搬出が飛躍的に増大して

いわゆる「東延時代」の幕開けとなった。住友重機の前身、「機械課」も新しく設置された。

そして、その象徴である大煙突が完成した明治28年、斜坑は遂に8番坑洞準三角の大富鉱体に達した。

蒸気機関の威力で排水が完了、水の底に再び現れた光り輝く鉱脈に、一同、歓喜の涙に咽んだという。

こうして、別子銅山は20年に余る“生みの苦しみ”の後に、近代化という大勝利を手にしたのである。

 

さて、この絵葉書であるが、撮影の時期は大水害の後、明治後半の姿であると思われる。

他に同じ構図のエンタイヤ絵葉書を2枚所有しているが、消印が明治45年と大正4年であるので

多分、それより少し前の情景であろう。残雪輝く巍々たる西赤石稜線の背景がとても印象的である。

絵葉書下部の大きな建物は採鉱本部。この傍らに第一通洞(旧代々坑)入り口がある。

ズリに隠れて、この絵葉書に写っていないのは返す返す残念。

大きなズリ山は、この時期までの風物詩。浮遊選鉱法の普及とともにすべて姿を消した。

東延の繁栄も、大正5年の旧別子撤退とともに終わりを告げ、その座を東平に譲ることとなる。

今は荒れ果てた機械場のレンガ壁と、石垣の崩れた大きな暗渠しか残っていない。

惜しむらくは、その大煙突も太平洋戦争中に敵の目標となることを恐れて撤去されてしまったことである。

今日残っておれば、旧別子の象徴として瞠目に値する巨大なモニュメント足り得たであろう。