別子山 運輸課、経理課、銀行調度課の景 

 

住友「イゲタ」社紋入りの純正?絵葉書。明治、大正にかけて流行った写真帖仕上げとなっている。

右下の絵は、カレイかヒラメと思いきや、金色の銅鉱石とセットウの抱き合わせ図柄のようである。

二枚の写真は、第一通洞に並び建っていた採鉱本部の建物群と、惣開精錬所遠望の組み合わせである。

惣開に関しては別の項で述べるが、これがいつ頃の写真かはこの惣開風景からだいたい推定できる。

精錬所に向かって湾曲しながら白く伸びる一筋の路は、実は「鉱山下部鉄道」の軌道である。

広瀬宰平の推し進める鉱山近代化の象徴として、明治26年(1893年)、惣開−打除間が開通した。

その軌道面や土盛りが、まだ真新しいことから明治30年前後の撮影と考えることができる訳である。

さて、絵葉書に写る建物は、明治中期、第一通洞(旧代々坑)付近に集中して建てられていた旧別子採鉱本部である。

「別子開坑二百五十年史話」には「・・第一隧道の南口一帯にかけ、土木、運輸、庶務、経理、調度の各分課、銀行の

出張所等、重要な諸施設が点在してをり、何処を見るも活気横溢、山上の繁栄は実に止まるところなかるべく思はれた。」

とある。上の写真は、別の絵葉書に見るその威容である。2枚の違ったアングルから照合すると、ある程度、同定が可能だ。

絵葉書もっとも手前の建物がBで運輸課、小さく庇しか見えないのがCで経理課、奥の2階建てがDの銀行調度課であろう。

絵葉書に写っていないAは、非常に立派な建物で、たぶん採鉱課であろう。とするとEは土木課ということになろうか?

これは推測に過ぎないので、この程度に止めておこう。ちなみに明治29年の「別子鉱業所事務章程」によると、

設計課、採鉱課、鎔鉱課、製錬課、機械課、運輸課、会計課、調査課、調度課、土木課、製炭課、販売課、地所課があった。

Bの真下に見える石組み部分が第一通洞であるが、明治19年の写真では、Bの位置に測量事務所の茅葺き建物が建っている。

明治20年から30年にかけて蒸気機関による鉱山の近代化が成し遂げられ、採鉱本部も暫時、一新されていったのであろう。

堂々とした採鉱本部も、明治40年、採鉱課主任、牧相信の断行する飯場改革に端を発した暴動事件により焼失してしまう。

運輸課の中で最後まで業務にあたった電話工手 高橋床三郎は焼死。鎮圧には善通寺第11師団の軍隊の出動を要したという。

この時期を境に旧別子は、新しい支配人 鷲尾勘解治の辣腕により、旧弊を除く遷都の如く、しずかに撤退してゆくのである。

 

(本絵葉書は日本有数の鉱山絵葉書コレクター 井上真治氏より頂戴したものである。伏して感謝いたします。)