別子銅山 クルト・ネットー画 

 

クルト・ネットー自筆の水彩画「別子銅山」の絵葉書である。「別子銅山図録」にはこの原画の説明文として、

「クルト・ネットー (Curt Netto, 1847-1909) はドイツの鉱山学者、採鉱冶金学の権威、明治六年工部省に招かれ

来日、鉱山および冶金技師として秋田県小坂鉱山に勤務、明治十年には東京大学理学部に転じ、採鉱冶金学を

講じた。十八年帰国に際し勲四等旭日章を与えられた。この水彩画 Beshi は彼の手になるもので、29/7.78

日付が見えるところから明治11年夏のものであることがわかる。」と記されている。彼の名著「日本鉱山編」は

日本鉱山学書の嚆矢として有名。別子に続き、市之川鉱山にも東大学生とともに訪れて、そのスケッチを残している。

さて、絵を描こうと構えた位置は、今の旧大山積神社跡上方であり、蘭塔場を中心に西赤石の稜線を配する構図である。

蘭塔場の下方は目出度町にあたるが、明治11年当時は、まだ木方に移転する前の「焼鉱窯」が整然と並んでいる。

左手前の石垣の上に建つ立派な建物は、「重任局」(鉱山事務所)ではないだろうか?屋根にチョコンと載った太鼓楼で

それと知られる。ここの太鼓で、別子の時間がすべて整然と進んでいた訳であるが、明治25年に焼失したという。

蘭塔場の左側、銅山峰の山腹に水平に描かれた微かな線は、明治13年に竣工予定の牛車道の一部とも考えられる。

別子銅山の絵画は江戸時代より数多く残っているが、西洋画法で描かれたこの時期のものは意外に少なく貴重である。

その精緻さもさすがネットーであるが、惜しいかな、市之川鉱山のは学生に描かせたようで、絵の質が著しく劣っている。

双幅の掛け軸のように、愛媛が世界に誇るこの二つの鉱山を、ネットーに心ゆくまで描いてほしかったと残念でならない。

   

絵にある「目出度町」は銅山随一の繁華街として、病院、小学校、郵便局をはじめ一大生活空間を形成していた。

食物、雑貨に至る日用品はすべて揃っており、下界のハマ(新居浜)よりもずいぶんと賑やかであったという。

毎日、ハマから揚がる魚もまずヤマに運ばれ、ハマより新鮮だったというが、さてそこまではどうだろうか?

今は無人の域にも殷賑極まる町があった証として、名を馳せた二、三の商家を紹介して当時を偲ぶよすがとしたい。

まず、料亭「一心楼」(左写真)。日野常太郎氏経営でさすが堂々たる二階建てである。この上部に重任局があった。

よろず商いの「伊予屋」(右、切妻側面が漆喰塗り。確証はないが、伊藤玉男氏が、「山村文化13号」で考証済み)

小泉藤七氏経営で、食品、雑貨をひろく扱っていた。息子の宗次郎は、西条で鉱山開発も手がけていたそうだ。

そして「奥定商店」(伊予屋右下に屋根だけ見える)。奥定春吉氏が伊予三島から来て、饅頭屋を始めたのが最初。

「えびす屋」とも称してよく繁昌したと伝えられる。春吉氏三男の友三郎氏は、平成まで神戸で健在であったという。

旧別子の消滅から90年が経ち、もうその町並を実際に記憶に留める人も稀だろう。しかし、人の思いは永く残る。

その思いを、大西定夫氏の歌集「別子銅山」から数首引用させていただき、この項の締めくくりとしたい。

ちなみに当時の一心楼主人 日野常太郎は、大西定夫氏の曽曽祖父にあたる人だという。

 

訪れる人ありや無し一心楼跡 銅山峰は人住まぬ山

ただ一つ祖父の残せし子供への 願ひと見たり墓石の一心楼銘

こつぜんと便りは消えぬ祖の家の 跡に百年草木は茂る

八十五歳友三郎翁の登り来て 伊予屋の跡に涙せしといふ

一心楼伊予屋奥定商店と 並ぶ目出度町幻の太鼓台