馬道(炭の道)

 

別子銅山も江戸時代中期になると、「遠町深シキ」と呼ばれる深刻な事態に直面した。

遠町とは、周囲の森林がすべて伐採され、焼鉱のための木炭や坑木が不足することであり、

深シキとは、次第に坑道が深くなり、酸素不足や水没のために採鉱が困難となる現象で

いずれも、鉱石を取り尽くした老山ならずとも、鉱山の命運を左右する大問題であった。

別子はさすがに巨大な鉱脈で、深シキが顕在化してくるのは江戸後期になってからであるが、

遠町は、山中での精錬と煙害が相乗効果となって早い時期から別子を苦しめたに違いない。

当時、粗銅1トンを作るには鉱石15トン、薪6トンと木炭4.8トンを要したという。

正徳3年(1713年)には、すでに土佐側で炭山が選定され、別子に運ばれた記録がある。

さて、この絵葉書であるが、西条市笹ヶ峰の北斜面から西を望んだ景で、瓶ヶ森と石鎚が遠望される。

手前、長尾根の右手に聳える峻峰は「又兵衛岳」、この尾根の向こうには現在、国道194号線が走る。

それに沿って、中ノ池や川来須など西条最奥の集落が点在するが、昔は国道もトロッコ道であった。

写真やや左手の緩斜面に横懸けする一筋の道がおわかりいただけると思う。これが「馬道」である。

尾根を回り込みながらほぼ水平に伸びており、向こうの尾根を越す矢印の場所が「天ヶ峠」である。

馬道は別子用木炭運搬路で「炭の道」とも呼ばれ、延々と迂回しながら高橋溶鉱炉まで続いていた。

下の写真は、旧制西条中学校登山部の昭和6年冬季笹ヶ峰登高における天ヶ峠付近の馬道の様子。

確かに軽トラが通れるほどの立派さである。(写真は、「親子三代笹ヶ峰物語」安森滋先生著より転載)

ただし、この絵葉書も同じ昭和初年撮影であるので、すでに馬道は廃絶し、道だけが残る状況であろう。

それから80年を経た現在では、周囲を深い樹林で覆われて、これだけはっきりと見ることはできない。

「旧別子銅山案内」によれば、このルートは、炭焼きの点在する西条加茂川流域からの幹線で

川来須−天ヶ峠−宿−吉居峠・西山越−鈴尾谷上部−大阪屋敷−奥窯谷−高橋(溶鉱炉)と続き

明治中期には、吉居と川来須に、別子銅山製炭課の出張所まで設けられていたという。

また西山越手前の「宿」には馬方人足のための中宿があり、長屋風の建物が建ち並んで賑わっていた。

「親子三代笹ヶ峰物語」には、「二百名が八十頭の馬を使い、中之池、黒代、川来須、笹ヶ峰周辺の

炭を「宿」の倉庫に集積したり、一日一往復の割合で、集積した炭を別子銅山まで運び、帰りは

別子銅山の購買部で味噌・醤油といった生活必需品を買い、載せ帰ったという。」と記されている。

しかし、この繁栄も長くは続かなかった。明治30年代に乳山北斜面の大崩壊があり、馬道は寸断。

おまけに焼鉱、精錬部門は四阪に移り、木炭からコークスへの需要変化で、馬道自体が不要となった。

以後、馬道は再生されることもなく、狩猟や山人の連絡道として時たま利用されるだけにさびれ果てた。

今はまったくの樹林帯の中であるが、さすがに馬の往還だけあって、石垣などで補強されているので

現在も川来須から宿までは充分辿ることができるようだ。最近の登山記もあるので参考にされたい。

逆に、別子から大阪屋敷を経て鈴尾谷上部までは、立派な横懸け道が残っている。小生も一度辿ったが

「馬道の分かれ」という美しい名前の分岐点もあって、木漏れ日の中を去りがたく感じた思い出がある。