別子鉱山鉄道(上部鉄道) 

 

上部鉄道は、明治26年12月に竣工。石ヶ山丈と角石原を一日6〜8往復した。

角石原発便は第一通洞から搬出される鉱石や焼鉱、粗銅などを索道のある石ヶ山丈へ、

石ヶ山丈発便は、索道から荷揚げされた石炭や支柱材、米麦、日用生活品などを満載して

「坊ちゃん電車」と同型の、クラウス社製軽便鉄道用機関車に牽引されて運搬された。

全長5.5km、平均時速は8km、133カ所ものカーブをもつ険路を勇猛果敢に猛進した。

写真は「切り通し」を通過したところ。凄まじい断崖絶壁の傍らを走っていたことがわかる。

煙の棚引く方向から、あるいは後進しながら石ヶ山丈に戻っているところかもしれない。

ターンテーブルなどは無かったから、後進牽引は運転手も神経を磨り減らしたことだろう。

絵葉書の右上にわずかに見える道路は、上部鉄道にお株を奪われてしまった「牛車道」。

当時は“仇”同士の間柄だったが、百年経った今は、昔を語り顔に仲良く併走している。

創業当時は、ドイツ人の機関手 ルイ・ガラントが邦人技師の指導にあたったが

言葉が通じないため、気短かになり、スパナで殴りながら指導したと伝えられる。

おまけに一般の乗客もいないから、少々の危険や故障はモノともしない荒技伝授だったが

廃線まで無事故であったというのは、さすがドイツ式教練の賜物と言うことができよう。

拡大写真で、機関車側面に「住友イゲタ」のマークが頼もしく写っているのも実に嬉しい。

さて、こんな山中に突然現れた近代文明の象徴に“恐るるものは何もなし”の感が強いが

当時、上部鉄道は“もののけ”の出現に幾度となく悩まされ、結構立ち往生もしたらしい。

伊藤玉男氏の「山の話」に、線路の真ん中にしょんぼりと立ち尽くす白髭の老人が目撃され

機関車がしばしば動けなくなった話がある。「五良津の天狗」の仕業だろうと当時は噂された。

小生は、そんな話は信じるほうではないが、近藤廣仲翁の「別子銅山風土記」に収められた

石ヶ山丈機関庫前の記念撮影の写真を見て慄然となった。実に不思議なものが写っている。

白髪の老人ではないのだが・・まあ、ご興味があればこの本を探してみられるとよいだろう。

それでも無事故で操業出来たのだから、もののけも上部鉄道の守り神であったのかもしれない。