別子鉱山鉄道(上部鉄道)
別子のや雪のいただきほがらほがら 初春の日の輝けり見ゆ 信綱
新居浜より仰ぐ雪の西赤石。といっても東平と同じ高さなので黒森「石楠花の尾」よりの展望であろう。
「呉木」と書かれている場所が呉木社宅。尾根を越えたところが東平である。昭和初期の面影である。
向こうの西赤石山の山腹を、一直線に走る水平道。これが別子鉱山上部鉄道の軌道跡である。
絵葉書の左端が「石ヶ山丈」、右端が「角石原」にあたる。角石原は煙害でいまだ禿山の状態にある。
拡大すると、水平道は2本が並行しているのがわかる。上側は、鉄道完成以前の輸送路「牛車道」である。
牛車道も広瀬宰平が推進した事業の一つであったが、欧州外遊後は、鉱山鉄道の敷設に執念を燃やした。
早くも明治23年には、上部および下部鉄道の同時起工を迎え、明治26年中に双方ともに無事、竣工した。
下部鉄道も用地買収に苦労したというが、あの峻険な斜面を切り通す上部の突貫工事は困難の連続であった。
しかし、「一念、岩をも通す」の言葉通り、鉱山の近代化を断行する宰平の信念のもと、短期間に完成をみた。
「別子鉱山鉄道略史」には、「国鉄新居浜駅開通は大正10年であり、それより28年も早い鉱山鉄道に
人々は驚き、弁当持参で下部線を、更には上部線まで、多数、岡蒸気の見物に出かけた。」と記されている。
上部線は特に「お山の坊ちゃん列車」と呼ばれ、日本一早くそして高い鉱山鉄道として親しまれたという。
軌道幅は762mmでいわゆる「ナロー」ゲージ。最急勾配も50パーミル程度で気合いの粘着運転だった。
そんな逞しい上部線も、牛に取って代わることわずか10年にして急激に最盛期を過ぎ下降線を辿ることとなる。
明治35年、第三通洞の完成で、鉱石の搬出は東延斜坑から通洞を経て東平に出るルートが確立したからである。
そうして明治44年10月。上部鉄道は惜しまれつつ廃線。同時に、石ヶ山丈−端出場間の索道も廃止された。
それから100年。禿山同然の銅山峰も素晴らしい森が再生し、アケボノツツジの大群落が山上を薄紅色に染める。
昭和40年代までは、山腹を一文字に撫で切ったようなラインがよく見えたというが、今は繁みに隠れて見えない。
路線跡を黙々と整備されてきた伊藤玉男氏もすでに亡く、次第に森に帰りつつあるのを喜ぶべきか、悲しむべきか。