(歓喜坑と歓東坑) (四阪島精錬所)
「別子銅山」は住友家が稼行した日本3大銅山の一つです。開坑は元禄3年(1691年)で、切上り長兵衛という廻切夫がその巨大な鉱脈を、当時、住友家の重役であった田向重右衛門に報告したことに因ると伝えられています。最初の坑道は、男達が相抱き合って喜び合ったということから「歓喜坑」と名付けられています。平成13年に整備され、10mほど中に入れるようになりました。旧別子の登山口にあるトイレは「長兵衛の思案所」と呼ばれていますが、その辺の逸話を知っておかないと、何のことか分からないと思います。
その後、元禄7年の大火災や、西条藩領の「立川銅山」との境界争いなど幾多の困難を克服しながら、幕府の庇護の下で、江戸期を生き抜いてきましたが、次第に「遠町深シキ」と呼ばれる木材不足や坑内湧水に苦しみ、産銅量は横這いの状態が続きました。
明治になり、維新の混乱期には、新政府に没収という危機にも見舞われましたが、広瀬宰平支配人(のち初代総理事)の奔走により克服。書類にあった「別子は住友第一の財本」という文言を「唯一の財本」と書き直し、強い決意で別子の近代化に全精力を傾けました。フランスからラロックを雇い入れ、今後の採鉱計画を組み立てました。これは「ラロックの目論見書」として有名なものです。彼の助言に従い東延斜坑を開削し、これによって江戸時代に水没していた「三角(みすま)の大富鉱帯」が再び姿を現し、鉱山鉄道の敷設や近代精錬法とも相まって急速に産銅量が拡大してゆきました。またこの頃、「住友家法」が定められ、有名な「苟クモ浮利ニ趨(はし)リ、軽進ス可カラザル事」という、現在も住友マンが誇りとする(また誇りとしなければならない)「住友精神」が確立されました。
順風満帆の別子銅山も、明治32年の大水害で旧別子を放棄せざるを得ない状況となり、これにより精錬所を新居浜に、さらに、良かれと思って断行した四阪島への再移転によって周辺東予地域の煙害がますます拡大するという皮肉な結果に苦しみました。他の財閥が「莫大な補償金を出したほうが、まだ安くつく。」と公害対策に消極的な中、補償交渉とともに根本的な解決法を模索。遂にドイツで開発されたばかりの「ペテルゼン式硫酸製造技術」という画期的な方法を導入して煙害問題を一気に解決したのでした。農民を苦しめた亜硫酸ガスが、有益な肥料に生まれ変わるという素晴らしい魔法に、会社側、農民側双方が「二十世紀の科学の勝利」に驚嘆し、歓びを謳歌したと語り継がれています。
煙害問題を解決した後は、浮遊選鉱法や電気精錬法の導入を積極的に行い、産銅量も年間12,000tを越え「永久の繁栄」が約束されたかに見えましたが、当時の鷲尾勘解治常務は昭和2年「別子銅山は末期の経営」と発言、大きな衝撃を与えました。新居浜との共存共栄を維持するため、将来の閉山に備えて、機械分野を独立させ、港湾の整備などを行いましたが、この発言が素因となって、鷲尾常務はのちに会社を去らなければならないという憂き目に遭いました。しかし、現在の新居浜が在るのは、この時の認識と備えがあればこそ、と思うとやはり素晴らしい炯眼であったと思います。
そして太平洋戦争に突入。国策による無計画な乱掘と、資材不足などで鉱山は荒廃、戦後の住友財閥解体など暗い時代を堪え忍んだあとは、持ち前の底力で、再び不死鳥の如く蘇りましたが、鉱脈は下部鉱床に移行、労働環境の悪化とともに鉱石品位も次第に低下。大斜坑の完成や合理化に次ぐ合理化で、次々に起こる困難を必死で堪え忍びつつも、頼みとしていた新鉱脈の探鉱もほとんど成果なく、昭和47年、遂に280年の歴史に幕を下ろしました。
閉山時に来山された、第16代 住友吉左衛門友成家長は、その時の感慨を多くの歌にされ、歌碑も建立されていますが、私は次の一首が印象的で特に好きです。
最下底三十二番レベルの灯 遙かの底に見えずなりたり
坑道に入り、一通り見終わった後、最下坑の32番坑道からトロッコかゲージで上に上がりながら、ふと振り返ると小さな最下底の灯火が見える。その灯も次第に遠ざかって見えなくなるとき、暗闇の中で、280年間、ヤマに生きヤマに死んだ多くの男達の魂とともに、最後の別れを切羽に向けて告げながら、はからずも別子の最期を見届けたという、安堵と寂寥の交錯する複雑な心境がよく伝わってくると思います。あれから、なお30年が過ぎ、32番レベルは濃硫酸の海に沈み、坑道や竪坑も人知れず、地底でボロボロと崩れ落ちていると思う時、万感胸に迫り、無量の想いをもたらし、住友、いや日本の財本となった大別子の偉大さを今さらながらに、しみじみと感じることができるのです。
(写真は「別子開坑二百五十年史話」から引用しました)