藪い・し・やのぼやき談義

                                                         田邊一郎

 

 今から半世紀も前、「人生幸朗・生恵幸子」という夫婦漫才コンビがいた。時事問題を鋭く批判し「責任者、出てこい!」と凄むのだが、相方が「ほんまに出てきたら、どうすんのや!」と突っ込むと「ゴメンチャイ、と謝るだけや。」で締める、いわゆる“ぼやき漫才”である。小生が鉱物趣味に興味を持って今年で20年、当会が創設されてから40年、この節目の年に当たって、次第に社会から批判が高まる風潮に対して小生が感じてきた様々な思いを、遠い埼玉県の空の下より「ぼやき」風に書き連ねてみた。もちろん真実もあるだろうが、誤解や誤りも多いだろう・・それを判断するのは読まれる方々に委ねたい。人生幸朗のようなウィットはないが、漫言放語、無為無能の誹りには「わたくし一人の“人徳”の致すところ」と素直にウィンクしながら謝りたい。

 

 

ある産業遺跡のこと

 四国には昔、数え切れないくらいの多くの鉱山があった。世界一と称される某アンチモニー鉱山から東洋一を自称する某銅山を筆頭に、無人の山中に狐狸の栖と成り果てたわずか数メートルの坑道を残すのみの無名の鉱山に至るまで、最盛期には一千を超す大小の鉱山が稼行していたと記録されている。その事情は他県についても同じで、今は石灰や珪石を採掘する僅かな種類の鉱山を除いてはすでに過去の産業となってしまった。よほどの世界事情が働かない限りは再び坑口を開いて息を吹き返すことはまずないであろう。時代の流れとしてそれはそれで諦めも納得もできるのだが、納得出来ないのは、過去の産業遺跡を永く保存し子孫に伝えようという真摯な姿勢が、愛媛では余り感じられないことである。それは個人や小さな愛好会がいくら叫んでもどうにかなるものではなく、行政や企業が何の関心も示さないところに本質的な問題があると小生は思っている。テーマパークらしきものもあるが、元々火薬庫の観光坑道では単なる洞窟探検にすぎないし、肝心の鉱物標本は水滴の滴り落ちる湿っぽい片隅にひっそりと展示されているため、貴重な鏡肌や斑銅鉱もすでに錆びてしまって往年の輝きを失い見る影もない。おまけに坑道に入っていきなりの島の製錬所、続いて中持衆、水抜きの人形と・・と到底、鉱山の流れを理解させようという気がない展示にはほとほと呆れるしかない。佐渡金山や足尾銅山、九州の鯛生金山など他のテーマパークと比較しても酷く見劣りがする印象は拭い去ることはできない。結局、鉱山を正しく理解させようという意識も意欲も感じられないのである。まあ、「〇の駅」の機能を併せ持っているので辛うじて命脈を保っているが、単独の施設ではとっくの昔に閉館を余儀なくさせられているところだろう。とはいうものの、無報酬で案内するボランティアの方々の涙ぐましい努力や、標高700mの嘗ての採鉱本部があった地区との連絡バスを運行するなど関係者の努力を全否定する訳ではないのだが、この地域を所有する企業が観光化には全く協力する気がないので、どんな努力をしても報われないのである。企業には中興の祖なる人物がいて、お山は自然に帰さなければいけないと宣ったので、その意思を100年以上守っているのだという。それはそれで尊いことだが、ポイントとなる産業遺跡まで何の保存活動もせず自然に帰すことが、その意思に沿っているかどうかは甚だ疑問の残るところである。お山を緑に返し、なおかつそこに存在した無数の魂・・・土石流や大火災、さらには鉱山病で命を落とした人々の鉱山に捧げた生き様を大切に保存、継承してこそ真の企業精神も活きるというものではないだろうか?・・ただ一本のモニュメントに年に一度、お決まりのようにお参りをしお経を上げるだけが供養ではないと思うのである。

日本という国は都合の悪い遺産は、地中に埋め戻してしまうという悪い癖がある。かのメッケル少佐が指揮して作った山口県下関の東洋一の軍事要塞にしろ、埼玉県吉見にあった中島飛行機の巨大な地下ライン工場にしろ、埋め戻したり入り口を崩したりして隠してしまうのは、およそ欧米のような記憶のために見学施設として整備する、負の遺産にも真摯に向き合う学びの姿勢とは正反対のものだ。だからこそ日本人は同じような過ちを何度でも繰り返すのである。火薬庫の観光坑道では人々の記憶に残せるものは何もない。第三通洞や第四通洞の何十メートルでもいい、歓喜坑からごくわずかな距離でいいから、企業の持つ鉱山技術を駆使して安全を確保し見学できるようにして、父祖が命を懸けて護ってきた鉱山とは何かを永く地道に伝えていくことこそが、鉱山から恩恵を受けてきた企業や自治体の当然の務めではないだろうか?

 

写真1.昭和30年当時の愛媛県鉱山分布図。(「四国鉱山誌」の付図より)

 

 

ある新鉱物のこと

 最近の鉱物分析法の発展は目まぐるしいものがあり、アマチュアの愛好家でも大学や研究所に鉱物を持ち込んで、簡単?に正確な成分分析ができるようになった。以前は血の出るような努力をして、それでもなかなか報われることもなかった記載鉱物学の分野も日々発表される新鉱物や日本産新鉱物の話題でどこも賑わっている。その中でもわが県名を冠した新鉱物は、名前のインパクトともあいまって非常な一大センセーションを巻き起こしたのである。件の鉱物は標高1700mの高山の頂き付近から産出する。とても体力のない者には行き着くこともできない場所なのだが、発表直後から産地が荒されているとの情報が埼玉まで届くようになった。其処は小さな鉱山(といっても、日本最高地の鉱山として有名なのだが)の旧坑のひとつで戦前に小規模に稼行したズリ場で、石垣で補強されたピンポイントの地点である。その石垣を崩してまで採集しそのまま退散するために辺りは山崩れの跡のように荒廃し、貴重な高山植物も被害を受ける惨状を呈したのである。縦走路の傍らでもあるので通りすがりの登山者でも眼を覆いたくなるほどで、見るに見かねて誰かが石垣を修復し裸地にコケ類が移植されていることもあったというが、噂は噂を生んで入れ替わり立ち替わりで乱掘が行われ、そうした修復作業も徒労に帰してしまったのである。これには日頃温厚な発見者の先生も激怒され、他人に産地情報を教えてしまったことを心から悔いておられるとのことであった。

“又聞き”ばかりの小生が批評するのには烏滸がましさを感じるが、それでも産地を完膚なきまでに荒らしてしまうのは明らかにマナーとルール違反である。今やネットオークションで、神社のお守りやご朱印帳まで売られるご時世で、もはや、昔のような高潔な意識を持つことは出来ないかもしれないが、もう一度、昭和46年に益富寿之助先生と櫻井欽一先生が掲げた「鉱物エチケット宣言」(「地学研究」Vol22;Nos1,2)をここに再掲して自戒としておきたいと思う。

 

「私たちは近来の自然の破壊・道徳の無視無眼に余るものあるに鑑み、次の採集エチケット五則を提言し、お互いにこれを守り、即時実践していただくよう同好各位にご協力方お願いを申し合わせました。

A.自然物を濫採し、産地を一挙に壊滅に瀕せしめるような行為は慎み、他人にも採集の歓びを頒つよう高度の精神の持主となりましょう。

B.採集後、くずした石片などが道路や谷川に崩れおちたまま、或は飲食物の残骸や紙くずなどを放置して引揚げるような猫にも恥づべき環境汚損行為をなくしましょう。

C.採集会など大勢の場合、産出場所が局眼されている時は、他の人の事も考えて適当に採集場所を交代し、互譲互恵の高度の人格を発揚しましょう。

D.バスなどでの採集会の際、一行に加わらず、その前日又は寸前に先廻りされることがあるが、これは一行の参加者としても、主催者としても不愉快極まることです。ことに近来は自家用車で先着してやる者が多くなっています。たとえ先着しても李園の冠、瓜田の沓の戒めにあるように一行の到着まで待つべきで、これが人としての常識というべきものでしょう。

E.多量の鉱物を研究するでもなく、同好同志にほどこしもせず、徒に死蔵するのは自然物に対する冒瀆で、前記A項の自然物の濫獲と同様の行為ではないかと思われます。そういう不遇の標本は博物館など公開の場に寄付して、多くの人々にみてもらうことにこころがけましょう。

 

 以上は採集マニア、未成年者の陥りやすい事柄ですので、成人の方とくに教育関係者には懇なご指導をお願い申し上げます。

                            昭和46年1月24日  」

 

現在は、A.の項目に露骨な鉱物売買も含まれるだろう。まことに耳の痛いお言葉である。しかし、この訓戒で一番重要なのは最後の一言で、鉱物趣味の先輩の行状が悪いと若い者の行状もおのずと悪くなるということである。この意味において、会員の渡辺康信氏が説くように、たとえ変わり映えがしなくても、関川などみんなで採集できるところで毎年、鉱物採集会を開催し、自身の採集もさることながら若者や子供たちに鉱物を楽しく教えながらさりげなくマナーを授けることも、我々愛好家の重要な責務ではないかと思うのである。

 

写真2.昭和30年頃の新鉱物発見地附近の景観。

 

 

●鉱物収集のこと

 小生が鉱物収集を始めたのは1998年頃、この頃はWindows95が全盛の時代でインターネットがようやく普及しつつあったが、まだネットオークションもなく鉱物収集、特に四国のマイナーな鉱物に至っては自分で現地に出かけて採集したり、知人を頼ってそのおこぼれを頂戴するくらいしか術はなかった。小生の興味の中心は別子銅山の銅鉱石や市之川鉱山の輝安鉱など古典的な標本が主であったので、病院の患者さんと多くの知己を得たのはまことに幸運なことであった。患者さんには元坑夫さんが多かったので、その間の情報網はさすがにすごいモノがあって、こちらから話を切り出さなくても、友達の○○さんによると先生は別子銅山の石を集められているとか?私も少し記念に持っているのでお分けしましょう、と見事な黄銅鉱や斑銅鉱の大きな鉱石を持参していただくことができたのは有り難く、今は多くの方がすでに鬼籍に入っているだけにお顔を思い浮かべるだけで瞼が熱くなるのを禁じ得ない。単に鉱物を手渡すだけでなく、この鉱石は27番坑道で採れたものであるとか、上司の命令で上部坑の孔雀石を採ってくるよう要請され、歓喜坑から入ったものの石を叩くだけで落盤が起こりそうで命からがら這い出てきた話など、経験しなければわからないその鉱石の横顔は、小生にとって標本とともにかけがいのない最高のラベルとなっている。

 市之川鉱山の輝安鉱標本、特に立派な結晶は現地でいくら石を叩いても得られる代物ではないので、多くは鉱物専門店のお世話になった。そうした専門店の標本の大部分は、海外からの里帰り品で、乾燥された環境で保存されていたこともあって見事な光沢に輝き、一目見れば買わざるを得ないような衝動に駆られるのが常であった。小生の所有する最高額の輝安鉱は120万円・・・、給料からボーナスまで全て注ぎ込んで買ったものだが、さすがにしばらくは職員食堂で賄われる病院食ばかりで飢えを凌ぐ生活を余儀なくされた。

しかし、この頃の収集物はもらい物にしろ、購入品にしろ、それぞれの思い出が詰め込まれており、ときどき箱を開けて見る時には飽きることもなく当時の深い感慨に浸ることができる。自身で現地にて採集した標本はもちろんそれ以上に愛おしく、結局それらは自分の命と同化しているからこそ愛おしいのである。

こうした従来の鉱物収集に大きな変化をもたらしたのがネットオークションである。もはや死語となったミレニアムあたりからようやく盛んになったと記憶しているが、しばらくは鉱物の出品などはマイナーな存在で、お目当ての四国の鉱物が出ても入札者も少なく、容易に開始価格で落札できたものである。小生みたいに視力も悪く勘も悪い、救いようのない愛好者にはもってこいの方法で、しばしばお世話になったのであるが、不思議にこうして手に入れた標本は何となく滲みが深まらず、一度、箱にしまい込むと二度と見ないようなモノも多くそのうち忘れてしまって、久しぶりに箱を開けて、こんな標本いつ買ったのかな?と自分でも驚くような始末。容易に入手できるようになった分だけ愛着が薄くなってしまったのである。出品者側も恰好の小遣い銭稼ぎとなるから、産地の乱掘が横行して地権者との軋轢も頻発し、もちろん自身の収集物の処分品や故人のコレクションなども含まれているとはいうものの、それらを見分ける方法もなく、いつしか鉱物趣味自身が敵対視されるようになってしまった。それとはうらはらに最近の鉱物趣味はますます盛況で出品者も落札者もヒートアップし、目を見張るような珍しい国産標本がかなりの価格でつぎつぎと落札されていく・・・あまりの高額に小生も途中で諦めざるを得ない場合が多くなったが、この出口の見えない、お手軽に己の物欲を満たすスパイラルこそが双方にとって最大の禍福であり、ネットオークションの及ぼす最大の功罪ではないだろうか?・・・しかしもう、どう批判し抗い反省してみたところで、昔のような静かで優しく美しい鉱物趣味の世界に戻ることはできないのだ。

 

写真3.佐々連鉱山のカロール鉱を頂いた野並 集氏(左端)と、

  そのお隣は別子銅山の安四面銅鉱を頂戴した山川静雄氏。

  後述の内田氏とともに別子銅山の鉱脈調査に従事された。

 

 

鉱物の寄贈のこと

 いつの世でも収集家は、己亡き後の収集品の行く末を考える。家族が同じ趣味を継承してくれれば言うこともないのだが、そんな殊勝な家庭はおそらくほとんど存在しないだろう。むしろ大文句を言われながら無慈悲に処分されていくのが常ではないだろうか?それよりも生前にどこかの施設に寄贈して、永く保管、顕彰してもらうのが一番良いと誰しも思うことだろう。自慢のコレクションであればなおさら「〇〇コレクション」と銘々して時々は特別展などで展示してもらえば、寄贈主だけでなく鉱物たちにとってもこの上ない名誉で冥利に尽きるというものである。小生も10年以上も前、埼玉に引っ越すにあたって一大決心をし、収集した鉱物を全部寄付してしまおうと考えて、地元施設に連絡したことがある。お会いしたことのある学芸員の先生に、寄贈に先だって一度コレクションを見に来てほしいとお電話したのだが、それでは近いうちに見に行きます、と言われたまま未だに何の音沙汰もなく今日に至っている。もちろん、施設側には施設側の言い分があるのはわかっているが、寄贈する側にとってはこれほど寂しく腹立たしいことはない。地元にわが鉱物標本を残してもらおうという夢が一度に打ち砕かれて、もうネットオークションででも売りさばくしかないという絶望の奈落に突き落とされてしまったからである。

 今の施設はどこもこんな感じなのだろうか?以前に山本幸三地方創生相だかが、学芸員は観光に対するスキルがないとのことで“学芸員無能発言”をして物議を醸したが、同時に、労多くして益の少ない、というか自分の点数にならないような文化財の整理などの仕事には無関心という意見がSNSでは飛び交っていた。最近は貴重な文化財の一部を無断で削り取って自分の研究材料にするという不祥事も報道され、やはり自身の評価に繋がる研究優先の姿勢が支配していることを改めて認識させられた次第である。

 少し話が異なるかもしれないが、考古学の出土品についてはどこも巨大な公的な収蔵施設を持っている。小生の住んでいる埼玉県にも、そんな収蔵施設があって広大な敷地にセキュリティの行き届いた近代的な建物が周囲を圧倒している。そこには学芸員を中心に、土器や埴輪類を修復して整理する係員や、啓蒙や普及に努める外交員、発掘作業にもっぱら従事する現地作業員などが、ボランティアを含めて整然と事業に従事している。利益などは度外視し地元に密着した施設としては理想的な姿といえるだろう。これと同じような施設があれば、地元の収集家にとっても大いに福音となるに違いない。しかし、考古資料のように一つの主題に限定しない場合には何をもって収蔵の基準とするかはなかなか難しい課題で、自慢の収集品とはいえど古銭切手の部類から古美術、骨董まで持ち込まれたのでは困るし、地元企業の大型機械などはスペース確保の上からも判断の分かれるところだろうが、国民的財産である文化財の定義、すなわち「国宝,重要文化財,史跡,名勝,天然記念物等」に照らし合わせば、天然記念物として鉱物や岩石は十分にその範疇に入ると思うので、名称としては「愛媛県文化財収蔵施設」でいいのではないだろうか?仏像や民俗資料などと同居しても、要はきちんと収蔵、整理してくれて、ホームページや年報などで目録を公開してくれれば、多くのマニアは充分に満足してくれる筈である。

 確かにこれらの作業を全部、学芸員の仕事にするのは少し酷なことだろう。少ない人数で年に何回かの企画展や子供たちの教育まで一手に担っている訳だから、個人の寄贈依頼をいちいち取り上げていたのではオーバーワークに陥ってしまう。それゆえに現在の博物館とは別に、過去の巨大なハコモノの再利用でいいから、整理と保存を目的とした愛媛の遺産を継承できる別の収蔵施設を作ることが最も切望されるのではないだろうか?

 

写真4.埼玉県熊谷市にある「埼玉県文化財収蔵施設」を紹介したHP。

 

 

●耳学問のこと

 鉱物や鉱山を学ぶにあたって、普通、頼りとするのは鉱物専門書や鉱山関係の書籍だが、日本の鉱山が消滅してしまった今日においては鉱山関係の本を入手するのは至難の業である。ようやく手に入れても、“ハネコミ”や“クイシメ帯”などの専門用語が分からず、ましてや坑夫さんの使用していた“ソバカワ”や“ナリカエリ”などの鉱石特有の名称に至っては想像することさえできずに随分と苦労したものだ。現在は、別子銅山記念館に各種鉱石の標本がそうした名前とともに並べられているので便利になったが、当時は元坑夫さんに病院の官舎においでいただき、実際に自分の標本を見せながら説明を受けることが一番勉強になった。百聞は一見に如かずというが、実際に従事していた方のお話は非常にリアルで、鉱物だけでなく本では知ることの出来ない鉱山の稼行当時の様子がありありと眼前に蘇るのであった。

 いままで多くの鉱山関係者からお話しを聞くことができたが、ここでは住友金属鉱山に勤めておられた理学博士の内田欽介氏についてご紹介したい。内田氏は東大理学部地質鉱物学科を卒業された生粋の技師さんである。主に別子銅山や海外の鉱山開発で活躍されたが、昭和30年頃には市之川鉱山の鉱量調査もされた経験もお持ちである。きっかけは小生の「市之川鉱山物語」が日本経済新聞に紹介されたことである。出版直前だったのだが、突然職場に電話があり、本の原稿を見たい、との仰せである。すでに表紙も決まり最終校正が終わった段階で、ほっとした時期で軽い気持ちで全ページのコピーをお送りしたところ、第1章の「市之川鉱山の概要」が赤字でビッシリと訂正されて返ってきたのである。市之川鉱山は水平鉱脈の“横𨫤(よこひ)”と垂直鉱脈の“縦𨫤(たてひ)”が一部で交差しているのが特徴で、坑夫さん達は「地殻変動で縦𨫤が倒れて横𨫤になったのだ。」と伝えていると記載していたところ、「何をバカなことを書いている。そんな戯れ言を信じて誤りを後世に残すのか!」と手厳しいご指摘である。もう段組も決まっているので修正は難しいとお伝えしたところ、25ページの次を25‘(ダッシュ)ページとして訂正した文章を挿入したらどうか?・・毎年の採鉱高は鉱業にとって特に重要な指標でこれがないと概要とは言えない!その表をぜひ入れなさい!と次々のご指摘に小生も出版社もホトホト困り果てたが、そこは出版社が折れて写真を縮小したり余白を縮めたりしてどうにか内田氏の要望にほぼお答えすることができたのである。しかし、出版後に改めて本文を読み直してみると、実際に市之川鉱山で調査しなければわからない内容も盛りだくさん且つ何よりも正確で、拙書の中でも特に自慢の一節に仕上がっており、誤りの連鎖とならないためにも専門の立場からご校閲いただいて本当によかったと、内田氏には深く感謝している。

そんなことがあって、年に一度は鎌倉のご自宅を訪問して、いろいろな鉱山の話をお聞きするのをとても楽しみにしているのである。とにかく学問に対しては厳格で妥協を許さない学究の姿勢はこころから尊敬でき全幅の信頼を委ねることができる。某金山の鉱脈偽装や某銅山(四国内)の鉱量見立違いのお話しは何度聞いても面白く痛快で、鉱山はこうした影の立役者によって守られ栄えていくものなのだと痛感したのである。最近は、鉱山をいたずらに神格化し一部の上層部だけが偉大なように唱える向きもあるが、「事業は人也」と同等に「鉱山は人也」で、世間には知られることの少ない技術者の弛まぬ努力の跡を辿ることこそが真の鉱山研究に繋がるのではないだろうか?仲間との楽しい鉱物談義に加えて、時にはこうした生粋のプロのお話しをお聞きするのも、雨読が苦手で耳学問が頼りの小生にとっては大きな知識の糧となっているのである。

 

  

写真5(左)は昭和30年頃の市之川鉱山の内田欽介氏(左より2人目(前列))。

  (右)は現在の内田氏。背後はご自作の絵画「我が生涯」。鎌倉にて。

 

 

結局は我が道を行く!

 いろいろと“心にうつりゆくよしなし事”をそこはかとなく書いてきたが、この20年の時の流れは、鉱物趣味の方法もさることながら、同好の人の心さえも分断してしまうほどの激変を来している。我が愛する「愛媛石の会」も決して例外ではない。世代交代である、と言えばそれまでだが、鉱物を売るがための乱掘は我々と地権者双方の、この趣味に対する意識を根底から変えてしまった。昔とちがって罪の意識を持ちながら鉱山を訪れ鉱物をコソコソと採集するのは誠に忸怩たる思いであるが、ネットオークションの恩恵にあずかる一人としては弁解の余地もない。偉そうなことを並べたてても何一つ実行もできず、結局は「ごめんちゃい!」と謝るしかないのである。しかし、ときおり四国に帰省して屏風のようにそそり立つ美しい四国山脈をじっと見ていると、何か力のようなものが心の底から湧いてくるのを感じる。人の世の喧しさや煩わしさを余所に崇高で物言わぬ静かな姿は、それとはうらはらな秘められた地球創成の凄まじい過去を雄弁に語りかけているようでもある。手の中の小さな鉱物を通じて友とともにそれを解き明かすべく、時間を忘れて語り合うほど楽しいことが他にあろうか?・・・いくらぼやこうとも鉱物趣味と「愛媛石の会」はかけがえのない我がこころの友! 今後とも、我がホームグラウンドとして、よろしくご指導、ご厚誼を賜りたいと願う次第である。

 

祝!「愛媛石の会」創立40周年!

                                                                                                                       (了)