黄銅鉱(吹寄せ)
「千原鉱山」は、周桑郡から温泉郡に抜ける国道11号線沿い、いわゆる「桜三里」の中山川河岸に存在する。開坑は古く江戸時代初期にまで遡ると伝えられるが明らかではない。「愛媛県東予煙害史(大正15年 発行)」によれば、宝暦三年(1753年)の文書(壬生川町役場保存)に「千原銅山宿壬生川三津屋紛争し云々」とあるので、18世紀半ばにはすでに存在していたことがわかる。近代的鉱山として形が整うのは、明治35年以降で、昭和初期までは中江産業により大々的に採掘と精錬がおこなわれたが、狭隘な山間での精錬は甚大な煙害を及ぼし、大正3年に当地での焼鉱過程は中止となっている。戦後は千原鉱業として操業を継続し、昭和38年に休山。現在は荒れるにまかされている。また最近は、中予地域の水源確保として中山川ダム構想が浮上したが、千原鉱山の鉱毒水や廃坑の処理がクローズアップされ、環境問題として耳目を聳動させたことは、記憶に新しい。すでに消滅してしまった会社に撤去命令や賠償を課すこともできず、ダム建設計画も宙に浮いたままである。このような廃坑の持つ“負”の遺産を如何に解決してゆくかが今後の学識者や行政の大きな課題であろう。
さて、歴史もさることながら、千原鉱山の面白さはその地質にある。この付近は東からまっすぐに進んできた中央構造線が、高縄半島を形成する巨大な花崗岩体に押されて南に撓んでいる場所で、変成の強い結晶片岩や紅簾片岩を主体とし、その地層は、鉱床もろとも中央構造線に属する断層群によってズタズタにされている。さらに花崗岩との境界には特殊な接触鉱床も見受けられ、スカルンと思しき鉱物も確認されている。また、「愛媛の自然」によれば、鉱床自体も変成を受けていることが千葉大学の兼平先生により明らかにされ有名になった、とも記載され(水舟淑朗氏)、キースラガー鉱床の中でも非常に特異な鉱山として研究者には名を馳せていた。蛇足ではあるが、この対極に属するのが、基安鉱山の続きにある「黒滝鉱床」である。ここは、鉱床が結晶片岩の中に整合的に一枚に繋がっていて目立った層間褶曲や断層もみられず、キースラガー形成後の変成をほとんど受けない産状を残す貴重な鉱山として知られていたが、10kmも離れていない同じ地域に両極端のモデル鉱床が共存しているところに愛媛の地質の面白さや奥深さを感じることができる。しかし今日、両鉱山とも、わずかに斜面に残るズリを除いては、その片鱗を伺い知ることのできる何物も残っていないのは残念なことである。
そんな中で、この標本は千原鉱山のキースラガーの割れ目に見られた「吹寄せ」。小さなものだが、黄銅鉱の放つ濃い黄金色の輝きは、硫化物を好む愛好者を魅惑してやまない一品であろう。稼行中のズリで得られたもので、現在、これだけの標本を採集することは困難と思われる。小粒ながら黄銅鉱の結晶もしっかりしている。小生のコレクションでも、別子以外の「吹寄せ」はこれしかなく、何度見ても飽きることはなかったが、関東転勤以来、実家の暗い物置の中に放置したままで、今はただ遠くから恋しい想いを馳せるのみである。
大正時代の千原鉱山(「愛媛県東予煙害史」より)