金鉱石(荘和鉱山)

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 愛媛県南宇和郡御荘町和口にあった荘和鉱山産と伝えられる含金石英標本である。“伝えられる”としたのは小生が採集した訳ではなく、松山在住の「愛媛石の会」会員Y氏から戴いたものであり、Y氏もまたご自身で採集した標本ではなく、これまた「愛媛石の会」の大先輩I氏から恵与されたという曰く付きの鉱石だからである。Y氏は荘和鉱山を数度に亘って探索するも、遂にその所在を明らかにできず、一片の石英片さえ採集できなかった口惜しさをI氏に語ったところ、大分前に辛うじて採集できたというこの標本を幸運にもI氏から戴いたと云うのである。泥岩か砂岩とおぼしき変成著しい岩脈にやや珪化した石英が層状に狭在する様は、確かに典型的な金鉱石を彷彿とさせる趣を有しているものの、これに果たして金が含まれているかどうかの補償はできないとI氏から念を押されたということだ。小生も何度もルーペで舐め回すように観察するのだが、金粒の高貴な輝きは未だ発見できないでいる。従って、これを以て“金鉱石”とするのは些か羊頭狗肉の感は否めないのだが、四国では稀少な“含金(かもしれない)石英鉱石”としてここに挙げておくことにした。

 

 さて、西南日本の外帯には、花崗岩と接するホルンフェルスが各所に見られ、地層の割れ目に貫入した熱水鉱床、とくに石英脈には金銀をはじめアンチモンや銅などの金属鉱脈が数多く胚胎している。鹿児島から大分にかけては特に金銀の貴金属鉱床がよく知られ、今も稼行中の菱刈鉱山をはじめ鯛生金山や赤石、串木野金山など枚挙に暇がない。ところが、四国になると同じ外帯とは言え、純粋の鉱脈型金山として存在するのは荘和鉱山と稲ヶ窪鉱床(程内鉱山)が挙げられるにすぎない。もちろん、古生層のキースラガー鉱床(野村鉱山や東向鉱山など)や大規模な三波川帯キースラガー鉱床(別子鉱山や白滝鉱山など)も金銀を含有することはよく知られているが、ここでは純粋の鉱脈型金山に限定して話を進めることにしよう。

 「荘和鉱山」は御荘町北部の山の斜面に開坑されていた。“荘和”の名前はおそらく御荘の“荘”と和口の“和”を組み合わせたものだろう。昭和27年に初めて鉱区が設定され、昭和35年に同町の上野慎一氏が探鉱を行うも良好な結果が得られず出鉱を見ないまま休山となった。したがって「四国鉱山誌」や「日本鉱業誌」にも記載はない。当時の本坑坑内地質図(下図 参照)を見ても、坑道はたかだか15m四方しかないのでズリの量も極めて少なく、これが名うてのY氏でさえ跡地を発見できなかった最大の理由かもしれない。「日本地方鉱床誌 四国地方」や宮久三千年先生の「愛媛県の金銀鉱資源」によると、この付近の地質区分は四万十帯に属し、砂岩、泥岩が深部の花崗岩体によって熱変成を受けた緻密なホルンフェルスを形成し、鉱脈はそれがさらに珪化して灰白色となった母岩中にある石英電気石細脈である。金銀に富む鉱脈には、硫砒鉄鉱、黄鉄鉱、磁硫鉄鉱、鉛アンチモンなども凝集し、このあたりの金品位は、最高40g/ton に及ぶという。一方、銀に至っては、ほとんど含まれず、宮久先生の採集したサンプルに 5.7 g/ton 程度が見いだされたにすぎない。いずれにせよ、鉱脈の規模が稼行に耐えうるほどの発展を認めなかったためそのまま放棄されたものと推察される。

 「稲ヶ窪鉱山」は北宇和郡津島町にあって荘和鉱山の北方に位置する。出願者の姓を取って“程内鉱山”とも称したが、鉱床は林道の切り通しに見いだされた一条の鉱脈に過ぎず、具体的な開発はまったく行われずに放置された。地質的には荘和鉱山と同じホルンフェルスの石英脈で、硫砒鉄鉱や黄鉄鉱、スコロド石等が凝集しているのが認められている。しかし驚きは佐賀関製錬所での分析結果である。なんと、金 500g/ton 、銀 6000 g/ton が含まれていると言うのだ。これは全国の金山でも特に高品位鉱のエレクトラムに匹敵する驚くべき含有率で、もちろん四国では“ダントツ”群を抜いている。昔からこうした探鉱状態の金山では、いい買い主を見つけるために、往々にして別の金山のエレクトラムを分析に出すことがあったらしく、分析を頼まれた地質学者は、鉱山の人間が標本をすり替えるのを防ぐために鉱石は自前の金庫で保管し、郵送にあたっても郵便局まで必ず自分で持っていったということだ。別に「稲ヶ内鉱山」の分析を怪しむ訳ではないが、分析の再検がなされたかどうかが不明なのは残念でならない。今、現地にはダムが作られて、そうした鉱石も採集することは全くできないとのことだが、標本程度とは言え、四国にもそうした高品位金銀鉱が存在したという事実は特記すべきことだろうと思っている。

 

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                                      (荘和鉱山の坑内見取図。「愛媛県の金銀鉱資源」より転載)

 

 少し、事情は異なるが、四国で忘れてはならないのが、ナウマンが発見したという徳島県三好郡山城町の山金(ベルクゴルト)である。これは銅山川に於ける砂金の起源としてナウマンが調査したもので、彼自身、調査書の中で「考究ヲ始ルニ当テ先ツ砂金ノ源物ハ含金硅石ト做シ余ハ山城谷大月ニ於テ石礫ヲ択拾シ搗磨シテ金分ヲ淘洗セリ。・・茲ニ硅石繊脈ハ恰モ滑石片岩ヲ逢合シ有竅的ノ玉髄ヲ伴随ス。即チ玉石片岩ノ一片ヲ砕キ能ク搗磨淘洗シテ約ソ小豆大ノ一半ヲ占ムヘキ粒金ヲ含メルモノ唯一アルノミ。」(山城谷村史)と僅かながらも山金を発見したと言っている。その後、銅山川から吉野川にかけて住友も金鉱脈を探鉱したと伝えられるが、実際に稼行された形跡がないところを見ると、果たして山金が実際に存在したかどうかは疑わしいと言わざるを得ない。ただキースラガー鉱床を胚胎する黒色片岩は、もともと海底の泥岩であり、泥岩には硫化水素の発生により重金属を集中させやすい性質があるらしいので、微量ながら金銀が含まれている可能性を完全には否定できない。さらに鉱山で“ハブ”と称する石英片岩にも金銀が含まれていてもおかしくはないと「愛媛県の金銀鉱資源」には記載されてはいるが、未だ金銀粒を含むようなハブにはお目にかかったことがない。砂金の起源と合わせて、さらなる研究が望まれる処である。いずれにせよ、荘和鉱山のような鉱脈型金山とは全く起源も性質も異にするものであるので、それぞれ別物として考えた方が無難であろう。

 

 四国の銀山に至っては明治以降、開坑された場所は皆無である。ところが江戸時代には銀山と称する鉱山が2,3ヵ所、存在していた。もっとも有名なのは、名山“平家平”の高知側登山口として知られる土佐郡大川村小麦畝の銀山で、元禄13年(1700年)の松下長兵衛の報告にも、「小麦畝之銀山御座候所へも罷越見分仕候、唯今長八間余、高さ三尺余、横弐尺余、掘入申候、本弦に当り不申候へども、唯今出申箔石之もやう宜御座候間、追付弦に達可申由かね掘共申候、右銀石かね掘之者に割せ少々吹候処、銀御座候。」と記載され、大北川銅山に付随して発見された銀山ということらしいが、その後の記録は何も残っていない。平家平には輝安鉱脈も知られているので、或いは銀鉱ではなく輝安鉱であったのかもしれない。ただ今は、小麦畝付近は全くの廃村であり、そうした縁を偲ぶ糸口を見いだすことさえ困難となっている。

 次は、香川県坂出市に残る金掘場跡である。伊達 伍先生の記事に依ると、高松初代藩主 松平頼重公の事蹟を記した「英公実録」の承応3年(1654年)の項に「この年銀を山に掘る。・・日月不詳なれども銀山は石田及び宇多津にあり・・」とあって、実際に坂出と宇多津の境界にある聖通寺山には、昔から防空壕と伝えられる深い穴が2ヶ所ほど残っている。小生も小学生の頃、よく遊びに行ったが、ひとつは坂出観光センター(現 サン・アンジェリーナ)北斜面にあって奥はかなり深く加背も大人が立って入れるほど充分で足元にはゴミが散乱していた。防空壕と信じて疑わなかったが、あんな山上に誰が何のために作ったのだろうと今にして思えば不思議な穴であった。当時は草木も綺麗に清掃された公園で行きやすかったが(下 写真)、今は樹木が大きくなって鬱蒼と近寄り難くなっていることだろう。もう一つは宇多津側の西斜面にあり、こちらは割りと低位置に開口していた。加背も低く子供が屈んで入っていける程度で奥には仏様が祭られていたように記憶する。友達と入ったまではよかったが、天井を懐中電灯で照らして吃驚仰天、ムカデというかゲジゲジというか・・そうした魑魅魍魎が何百匹もびっしりと頭上を覆っていて悲鳴を挙げながら一目散に逃げていった思い出がある。いずれも防空壕と考えるには不自然であり、やはり江戸時代の銀山跡とするのが妥当なのだろう。実際に銀が採れたかどうかについては今となっては知る由もない。

 

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                          (昭和30年代の聖通寺山。展望台の向こう側に穴がある。今は眼前に瀬戸大橋が架かる。)

 

 以上、四国の鉱脈型金銀鉱山について、ごく簡単に述べてみた。鉱脈型金山や銀山は、各地に申し訳程度に存在はするものの、残念ながら稼行の対象となるような規模の鉱山は凡そ皆無に等しいと言わざるを得ない。荘和鉱山も出鉱には至っていない訳だから、果たして“鉱山”の名が相応しいかどうかは議論の余地がある所だろう。・・こうした状況に最大の誤解を与えているのが、マイントピア別子の菱刈鉱山産金鉱石である。本館オープン当初に住友から寄贈されたまま動かすこともできず、2階のエントランス正面に鎮座ましましているのだろうが、日本広しと言えども、己の銅山のテーマパークの正面に他鉱山の金鉱石を堂々と据えているのはおそらく此処を置いて他にはあるまい。小生も、横を通り過ぎるたびに、「これ、何の石?」と言う子供の質問に、「ここで採れた金の鉱石だよ。」と答える親御さんの姿を何回、見てきたことか!・・脇に説明板が有ることは有るのだが(下 写真)・・しかし、そんな会話を聞く度に得も言えぬ恥ずかしい思いが湧き上がってくるのである。展示するのは他山の石、観光坑道も火薬庫を利用したダミー坑道、というのでは、東洋一を豪語する別子銅山に来て戴く多くの観光客にも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。やれ東洋のマチュピチュだ!、やれ世界遺産登録だ!、などと浮かれる前に「銅山は銅を採る処」というテーマの基本に立ち返って、正しい知識を提供できるよう、もう一度考え直す必要があるのではないだろうか?それが世界遺産登録にむけての第一歩だと確信するものである。・・残念ながら四国には、あのような神々しい高品位含金石英鉱床は存在しない。しかし、古くは大仏建立のために砂金を採集したと伝えられ、住友隆盛の基となった南蛮搾りに始まる別子を始めとする巨大なキースラガー鉱床に含まれる金銀の生産量は、菱刈の金鉱石などに頼らなくても充分すぎるほどの産金の地であったことを、もう少し展示に反映させていただきたいと力説してこの稿を終わりたいと思う。

 

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                           (マイントピア別子2階の菱刈鉱山産金鉱石。ここのヌシの如く鎮座している。)

 

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