別子銅山変災の図

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 明治32年8月28日。夕刻、高知に上陸した台風は四国を南北に縦断し、翌日、日本海に抜けた。折からの風雨は午後8時頃より勢いを増し、山肌にへばりつくように並ぶ家々で息を殺して怯える住民めがけて山津波が一気に襲いかかった。午後8時30分と伝えられている。煙害で禿山となった山肌に200mmの豪雨が降り注いだのだから堪らない、水の勢いを防ぐモノは何もなく、一気に崩れ落ちる大岩とともに山の斜面そのものがなだれ落ちてきたという。稲妻の閃光が、その阿鼻叫喚の地獄をコマ撮り写真のように人々の脳裏に焼き付けていく。子どもを抱いたまま濁流に呑まれていく女性、大岩とともに四肢が砕けながら転がり落ちる坑夫、崩れゆく家の柱にすがりついて念仏を唱える老人、その姿もあっという間に闇の彼方に消えていく・・すべては一瞬の出来事であった。さしもの繁栄を極めた見花谷、目出度町、風呂屋谷をはじめ高橋精錬所、小足谷集落に至るまで、別子銅山200年の繁栄は一瞬のうちに壊滅してしまったのだ。翌朝、生き残った人々の前に拡がる余りの惨状に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかったという。教科書を体にくくりつけたまま家の下敷きになって死んだ子ども、下半身が埋もれたまま泥団子のように息絶えている女性、名医の誉れ高かった別子病院の医師一家もすべて帰らぬ人となった。土砂とともに流れ去った夥しい家財は銅山川から吉野川にでて、鳴門海峡では遺体を乗せたままの漂流物がいくつもいくつも流されていくのが目撃されたと記録されている。倒壊家屋122戸、死者512人(うち行方不明者271人)、鉱山施設も高橋精錬所の倒壊をはじめ総額33万4900円に達する未曾有の大災害であった。それでも焼鉱部門はどうにか復旧したものの精錬関係は政府の指導ですべて新居浜に移り、採鉱本部の主力も次第に東平に移管され、人口1万人とも云われたヤマの賑わいを取り戻すことは二度となく、「旧別子」として生き残った人々の思い出だけの町となっていくのである・・

 この大惨事を描いた錦絵が残されている。その様子はあまりに生々しく説明する必要もないだろう。多くの書物に記される災害後の写真や文章よりも色付きのためか、遙か強烈に訴えてくる力があって、小生もよっぽどのことがないと筺底から取り上げることもない特別の品ではあるが、別子を知る何かの参考になればと思い、ここにご紹介する次第である。「がらくたのページ」に載せるのもそぐわないが、なにとぞご諒恕いただければ幸いである。

 

 ちなみに、行方不明者271人のほとんどは海に流されたと考えられているが、いまだ別子の地中に眠ったままの仏様も多いと聞く。271人という数字も当時の戸籍上あいまいな点もあり、実際はもっと多くの死者が埋もれたままであると伝えられる。その辺の事情は地元の人がよく知っていて、死霊彷徨う旧別子を夕刻以降に訪れることは今もタブーとなっている。小生の友人のK君は狩猟をするが、そんな猛者達も夕刻近くなって目指すイノシシがこの地区に逃げ込んだ場合は決して追いかけることはしないと云う。「不幸な死を遂げた人々に満足なお弔いもしてあげられなかったのは同じ別子に住む者として大きな悲しみです。せめて夜はその眠りを妨げないようにソッとしておいてあげたいだけです。」とシンミリと語ってくれた。

 

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