市之川鉱山

  

         鉱山全景(1915年頃)     精錬所(1890年頃) 

 

 愛媛県西条市にあった世界一のアンチモニー鉱山。明治中期にはその産出量とともに、マテと呼ばれる巨大な輝安鉱の美晶で名実とも世界一の名を恣にしました。開坑は延宝7年(1679年)、土地の郷士、曽我部親信が発見したと伝えられています。「市之川鉱山沿革誌」と呼ばれる書物には「・・然ルニ足下ノ厳石ト厳石ノ間ニ槍ノ穂ノ如キ形ヲナセル石アリ。直チニ山民ニ命ジテ掘出サシメシニ其下ヨリ燦然タル一塊ノ金ヲ掘出ス。名ヅケテ白目ト云フ。」と記されていますが、奈良時代に伊予からしばしば献ぜられた「シロメ」も輝安鉱と考えられており、江戸時代に再発見されたいうのが妥当かもしれません。江戸期は需要も少なく、精錬法も幼稚なため、曽我部家を中心に細々と採掘が続けられていたと考えられています。

 明治にはいり、富国強兵を押し進める新政府は、鉱業にも力を入れ、明治8年にはお抱え英国人フレッシ ウィルが視察に訪れたりして次第に活況を呈するようになりました。アンチモンは砲弾の金具に使用されるため、西南戦争を契機にして需要が急速に伸びてゆきましたが、鉱区のずさんな管理や、悪質な鉱山仲介業者、詐欺師、暴力団などが暗躍し、権利争奪のため紛糾し混沌たる状況に陥ってしまいました。いわゆる「大山騒動」と呼ばれる事件です。そうした中で明治17年、鉱山は坑法違反の廉で愛媛県に全て没収され、当時、愛媛県農商課鉱山御用達の「藤田組」に事業継続を委託しました。藤田組は今の同和鉱業の前身で、総帥たる藤田伝三郎は、五代友厚と並ぶ関西財界の重鎮の一人。多くの妨害を受けながらも、強い決意を以て鉱山建て直しに奔走しましたが、最後は県に裏切られる形で「市之川鉱山」から撤退。小坂鉱山をはじめとする東北の鉱山経営に移らざるを得ませんでしたが、のちのちの「市之川鉱山」の衰退を見れば、藤田組にとっては、良い潮時であったかもしれず「災い転じて福となす」の諺の通り、ラッキーであったというべきかもしれません。

 藤田組が去った明治23年、ふたたび地元の共同経営の形で「市之川共同鉱山」が発足しました。このときの地元の歓びは、千荷坑の石組に刻まれた誇らしげな文字からも推察することができます。その後は、前の「大山騒動」の二の舞を演じないように統一的に経営に当たったので次第に鉱量出荷も増加し、西条市内に大規模な精錬所を設けるまでに至りました。精錬所は土場や北浜に建設されましたが、それらの建造物は今は何も残っていません。ただ河原に散乱している精錬滓(カラミ)にわずかに往時を偲ぶのみです。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と戦争が起こる度に活況を呈し、狭い谷間にギッシリと鉱山住宅が立ち並ぶ大集落が形成され、戦争が終結すると、たちまち不況に陥り会社倒産となってしまうという繰り返しで、「諸行無常、盛者必衰」の理をそのまま地でいく恰好となりました。「鉱山で財を失った者は多いが、金満家になった者は聞かない。」とは昔から地元に語り継がれている話です。

      しろめ通いすりゃ雪降りかかる  戻りゃ妻子が泣きかかる 

 なんとも寂しい俗謡ですネ。相場に左右される坑夫たちの赤貧ぶりが目に浮かぶようです。

 昭和19年からは住友財閥の所有となり、発破を用いて大々的に採鉱を行いましたが、往時の隆盛を取り戻すことは出来ませんでした。戦後は、縦ヒを中心に、大盛坑など下部坑道から積極的に探鉱を行いましたが、収支折り合わず、海外の安価なアンチモンに押されて、遂に昭和32年、鉱脈を残しながらも、惜しまれつつ閉山となりました。

 今も、鉱山跡は企業の所有で観光坑道や産業遺跡としての公園化などはほとんど行われておらず、「市之川公民館」の資料室(毎日は開館していないので事前に西条市教育委員会に問い合わせを!)や、閉鎖されたままの千荷坑、対岸の草茫々の選鉱場跡が残る他は、なにもない山間の過疎集落に凋落してしまっています。しかし、ここから掘り出された輝安鉱の美晶が、世界中の研究機関や博物館で今も万丈の気を吐いていることを思うと、改めて「 ichinokawa, iyo, shikoku, JAPAN」ブランドを再認識するとともに、「死してなお・・」の「市之川鉱山」の偉大さにただただ感服してしまうのです。

 (この稿を書くにあたって、西条市教育委員会発行の「正続 市之川鉱山資料集」および「市之川鉱山 豆知識」を引用させていただきました。)