『市之川鉱山物語』を出版して

                                 

1.執筆の動機

 市之川鉱山は言うまでもなく輝安鉱の世界有数の鉱山で、特に明治時代に産出した輝安鉱の美しさは並ぶものがなく、世界中の博物館にその巨大な標本が展示、保存されている。しかし、地元では近年の大水害や市民の無関心さから、ここ数年で鉱山跡の荒廃だけでなく貴重な市之川鉱山関係の資料が多く散逸してしまった。市之川公民館に保存されている立派な輝安鉱標本も一本が失われ、鉱山関係の貴重な文献も、信じがたいことにいつの間にか西条市役所から亡失してしまったのである。また、鉱山関係の研究や啓蒙の第一人者であった元市之川公民館長の伊藤 勇先生も2013年に亡くなり、このままでは、本当に世界一の市之川鉱山を次世代に伝えていくことができなくなるとの危機感が積もり、見るに見かねた気持ちで、力不足を痛感しつつも取り組んだのが本書である。出版は神奈川県の「現代図書」から700部の半自費出版とし、定価は少しでも多くの方に読んでもらおうと大赤字覚悟の2,980円に設定、今後5年間、全国主要書店に流通する。なお、西条市内の中学校と高等学校、および県内の主な図書館と国立国会図書館には1冊ずつ寄贈した。

 

写真1.閉山頃の千荷坑口。トロッコ軌道が残る。

 

2.出版の準備

 出版に際して参考にする資料は、伊藤先生が編集した「正続 市之川鉱山資料集」や「市之川地区の歴史」などである。過去の市之川鉱山関係の文献を根気よく蒐集し大変よく纏まった内容だが、これだけを参考にしたのでは先生の二番煎じとなってしまい新しい鉱山誌を構築することはできない。かと言って他に残る関係資料を探る手立てもなく諦めの境地にも立たされたこともあったが、思い切って先生のご子息にお願いして、残された先生の貴重な研究ファイルや写真資料を譲り受けることができたのは最大の幸運であり、また執筆に気持ちを向けさせる大きな転機ともなった。その中には未だ知られざる市之川鉱山の詳細な研究や記録が、几帳面な先生の性格そのままにビッシリと書き連ねられていたからである。

 

3.「市之川鉱山沿革誌」の再発見

 まず市之川鉱山を語るに根本的な文献が「市之川鉱山沿革誌」である。この書は江戸時代から鉱山経営に深く関わっていた曽我部家第13代 政太郎によって明治34年に書かれた曽我部家の家譜でもある。中でも第3代 親信による鉱山発見が「延宝七年九月五日保野山ヨリ市之川山ニ通ズル道路破壊セシニ付山民ニ命ジテ修繕セシム。親信山民ト共ニ保野山字仏ヶ峠ニ於テ午餐ヲ喫シ休息ス。然ルニ足下ノ巌石ト厳石ノ間ニ槍ノ如キ形ヲナセル石アリ。直チニ山民ニ命ジテ掘出サシメシニ其下ヨリ燦然タル一塊ノ金ヲ掘出ス。名ヅケテ白目ト云フ。」と劇的に名文で語られているのは誰しもが知るところであろう。このフレーズは主要な文献やウェブサイトには常に引用されているにもかかわらず、肝心の原本や写本は長い間、所在が不明のままだったのである。しかし、まずこれを読破しておかなければ執筆などは論外との認識で、曽我部家縁故の方々や西条市関係者を必死で訪ねて照会してみたが有力な情報は得られなかった。しばらくして、その貴重な全文のコピーが伊藤先生の夥しい資料の中から見つかり、ようやく愁眉を開いたのであった。

 

写真2.曽我部家蔵の「市之川鉱山沿革誌」。

写真の原本は現在も所在不明。

 

4.「市之川鉱山座談会」のテープ資料

 昭和36年頃、4人の鉱山関係者を招いて市之川鉱山の思い出話を語ってもらう座談会が旧西条市立郷土博物館で開かれた。2時間に亘る内容は全てオープンリールテープに録音され博物館に保管されていた。昭和50年代に、伊藤先生がそのテープ起こしをされ、主要な部分を「資料集 市之川鉱山」に掲載したのである。小生は、執筆にあたって全内容を聴いておこうと博物館に照会したところ、該当するテープは残っていないとの返答であった。貴重な市之川鉱山の「セット節」も録音される唯一のオーディオ資料でもあるために、しつこく食い下がって探して貰ったが結局見つからず、しばらくは落胆して執筆が滞ってしまった時期もあった。それから1年ほどして博物館の廃棄予定の戸棚の中に無造作に放り込まれていたテープが発見されたとの朗報がもたらされたのである。この時ほど嬉しいことはなく、さっそくテープを借り受けて何度も聴くとともに、専門の業者に委託してCDにデジタル化してお返ししたのであった。本テープは現存する市之川鉱山資料の中でも最も重要な根本資料のひとつであろう。

 

5.鉱山関係者からの聞き取り

 執筆を思い立ってから、四国に帰省する度に、鉱山関係者からの聞き取りをおこなった。特に元市之川公民館長の伊藤 勇先生と、元坑夫の伊藤春見氏には数回に亘ってお話を伺い大変参考になった。また、白目山神社を奉斎していた飯積神社の葛城光彦宮司や、市之川地区の菩提寺である王至森寺の瀬川大秀師のお話も当時の鉱山を充分に偲べる内容であった。しかし、実際に鉱山で働いた方に巡り会えることは稀で、伊藤春見氏が最後の坑夫さんであるといっても過言ではなく、ここ10年の間に死亡された方も多く、聞き取りが遅きに失した感があるのを痛感しとても残念であった。もちろん伊藤 正氏をはじめ市之川地区の住民の方からも貴重なお話をお聴きする機会があったが、平成16年の豪雨災害以降、多くが西条市街へ転出し次第にそうした話をお聴きする方も少なくなるのは寂しいことである。今から10年もすれば、取材する状況はさらに絶望的になると考え、出来うる限りの力をこの聞き取りに注ぎ込んだのである。小生は昔からそのアスペルガー的な性格からか知らない人に電話や話をするのが大の苦手なのだが、市之川鉱山への思いがそれを少し上回っていたために何とか実行できたのだと、つくづく此処まで頑張り得た自分に感心をしている。

 

写真3.多くのお話を伺った伊藤 勇先生(左)と伊藤春見氏(右)。いずれも他界。

 

6.曽我部家の行方

 市之川鉱山を発見し江戸、明治時代を通じて稼行をほぼ独占していた曽我部家は、鉱山誌を書く上で欠くべからざる存在である。代々、西条市飯岡南部の「大浜」に居住し、大浜、市之川、津越、丸野、保野の五ヶ山の庄屋を務めた。鉱山業は副業的なものであったと思われるが明治になると石鉄県に多額の払い下げ金を支払って買収し鉱山経営者一族として活躍した。そうした意味では別子銅山の住友家と同等であるという自負と誇りがあったのだろう。しかし明治35年に会社が倒産した後は、財産を失って越智郡大西町の親族に当たる井手家に寓居し再び大浜に戻ることはなかった。曽我部家は「市之川鉱山沿革誌」に引用される貴重な古文書類を今も所有しているはずなので、この機会に様々なルートを通じて一族の方々と連絡を試みたのである。ようやく一縷の情報を頼りに直系のご親族に連絡することができたが、曽我部家の過去や古文書類については何もわからないというつれない返事であった。曽我部家の現在の状況について詮索するつもりはなかったのだが、結局そのように受け取られてしまったのは甚だ心外で、今のところこの目で資料類を確認する方法はないように思われる。伊藤 勇先生がある程度の資料を接写、保存しておられたのがせめてもの救いという他はない。ただこの調査で、第8代 曽我部親令からの分家である今治第一病院理事長の曽我部仁史先生や、「市之川鉱山沿革誌」を執筆した曽我部政太郎氏のご子息の姻戚にあたる学習院大学大学院の安藤正人教授と親しく面談できたのは大きな成果であった。

 

7.フレッシュヴィル氏の肖像写真

 明治に入り、市之川鉱山も別子銅山同様、急速に近代化を推し進めることになるが、そうした熱い鉱山隆盛の中で工部省の指示を受け来山した外国人技師がフレッシュヴィル ( Robert James Frecheville ) である。英国王立鉱山学校を卒業後、お雇い外国人として日本に派遣された。日本には明治6年から9年まで滞在し、全国の鉱山を視察するとともに秋田県の大葛金山の近代化に大きな足跡を残した。市之川鉱山へは同じ工部省の長野桂次郎と明治8年6月に訪れ、大山騒動前夜ともいうべき混乱状態の原因が広大な鉱区設定であることを看破しその縮小などを指示している。もちろん市之川鉱山を訪れた最初の外国人でもあった。帰国後はイギリスの鉱山監査官や世界中の鉱山コンサルタントとして活躍し1930年に84歳で亡くなっている。小生は拙書の中にぜひフレッシュヴィルの肖像写真を掲載しようと思い、いろいろと探し求めたが意外にも一枚の写真も入手することはできなかった。1930年と言えば昭和5年である。ここまで生存していたのだから一枚くらいはどこかに残っているだろうと軽く考えたのが誤りであった。同行した長野桂次郎の写真は割と簡単に手に入ったのだが、東大史料編纂所をはじめ旧工部省関係や大葛鉱山にも残っておらず、慣れない英文を書いてイギリスの王立鉱山学校や関係したコーンウォールの鉱山博物館、大英博物館、果ては家系ルーツの調査会社(イギリスはルーツ探求には非常に熱心な国民)にまで照会してみたが全て徒労に終わった。これだけが今も心残りであるが、将来、出来るかもしれない「市之川鉱山記念館?」の正面には、ぜひともフレッシュヴィルと長野桂次郎の肖像を並んで掲げたいと目論んでいるので、今後も諦めることなく探し続けたいと決意を新たにしている。

 

8.市之川鉱山よ!静かに眠れ・・・

 いろいろと取り留めのないことを書き綴ってきたが、これ以上書いていると紙面の都合もあるだろうし、詳しくは拙書を購入して読んで頂くのが自費出版の痛みを少しでも軽くすることにも繋がるので、貴兄にはぜひぜひ一冊お買い求めを低頭懇願するより他ないのだが、こうして取材をしてみると、これまでの鉱山に対する行政側の保護対策や啓蒙の意識が如何に低いものであったかを訴える方の多いのには本当に驚かされる。今までも市之川住民や地元の郷土史家、学校関係者など何度も何度も市や県に陳情し鉱山跡の保全や公園化を訴えてきたが、一時は盛り上がるように見えた啓蒙活動も、結局は全て“振り出し”に戻すような仕打ちを繰り返し受けてきたことは否めることができない。「企業が所有するものだから。」「石鎚や水都のような集客性に乏しい。」「アクセスが悪すぎる。」「限界集落の問題とマッチングされる危険性がある。」などそれなりの尤もらしい理由を盾に結局は“金にならないものには金は出さない”という姿勢を貫いてきたのは、ある意味“お役所気質”の鉄の意志を示しているようでつくづく感心せざるを得ない。そうした行政の、市之川鉱山に対する冷たい姿勢はおそらく今後も変わることはないであろう。

 

 

写真4.次第に荒廃してゆく鉱山跡。2012年撮影。

 

 その陰で市之川鉱山は平成16年の豪雨災害以降、確実に荒廃の度を増しつつある。急速な住民の減少とともに山は荒れ、同時に企業が鉱業権を放棄して単なる山林となってしまったことも、この鉱山跡の行く末に暗い影を落としているようである。そうした惨状や願いを訴えるべき”情け深いお上”はもはや何処にも存在しないのである。しかし、いつの世でもそうであったように民間の言い伝えや記憶は永く残る。将来また小生の拙い文章を読んでこの不幸な不世出の鉱山に思いを馳せてくれる人もいるかもしれない。そんな切ない期待こそが本書をしたためた最大の動機とも言える。とりわけ市之川鉱山は、”戦争鉱山”の名が示す通り、多くの人々を麻薬の如く陶酔させそれ以上の幸福を奪い取ってきたいわば”呪われた”鉱山でもある。本書が鉱山(ヤマ)に翻弄され夢敗れて歴史の闇に消えていった無数の民衆と、人知れず山に消えてゆく鉱山へのささやかな鎮魂の譜ともなれば、更にこれ以上の幸いはないとしみじみ思うのである。

                                     (終) 

 

『愛媛石の会会誌 第13号(2016年1月 発行)より転載』