スメクタイト(ニッケル珪質岩)

isizuchi-2a   isizuchi-2b

 

 新居浜市から西条市にかけての三波川帯には、「えひめ翡翠」と称する美しい緑色岩を産する場所がある。いわゆるスメクタイト(ニッケル珪質岩)とかリストベナイトと呼ばれるもので、戦時中にニッケル鉱石として実際に稼行された時期もあった。戦後は、海外の安いニッケル鉱石に押されて、それを目的に採掘されることはなくなったが、観賞用の美石として現在も珍重されている。小生も昔 、西条市内の骨董店で、ピカピカに研磨された輝緑色に輝く「えひめ翡翠」を見つけてさっそく求めようとしたが、その値段に驚いてあっさり諦めた経験がある。しかし、「翡翠」とはまったく異なる鉱物で各所に要らない誤解を与える(正真正銘の「翡翠輝石」や「コスモクロア」も四国山地の高度変成帯から確認されている)ため、最近あまりこの名称は使用しないとのことであるが、「えひめ翡翠」あるいは「加茂川翡翠」というその美しい響きは、やはりなかなか捨てがたい趣がある。かの宮久三千年先生も「えひめ翡翠」の名は相応しくはないのだが、さりとて飾り石として県産の一級品に恥じないこの石は、「伊予の青石」の仲間では「翠緑石」といった存在で大切にしたいものです、と述べられている。

 

 さて、標本は、西条市加茂川流域の黒瀬鉱山産のものである。黒瀬鉱山は、当初、滑石採取を目的に大正時代に開坑。昭和26年まで石筆や白墨などタルクの需要に応じて、大々的に操業されていた。「四国鉱山誌」には、「当鉱山付近は、大正初期に石筆材料として滑石が盛んに採掘されたことがあったが、満州、朝鮮の優良品が大量に輸入されるにおよび休山のやむなきにいたった。その後、昭和17年、伊藤太三郎氏がニッケル鉱床の露頭を発見してニッケルを対象として稼行し、昭和20年度には400tを産出したこともあるが、戦後直後品位の点で稼行に耐えず休山した。ところが、終戦後は滑石の輸入が途絶え、必然的に国内産で需要をまかなわなければならぬ状態となり、需要は拡大し、各鉱山とも操業再開したが、当鉱山もその例にもれず、ニッケルにかわり滑石の採掘を開始した。以後、昭和26年5月まで操業を続けていたが、ふたたび滑石の輸入をみるにいたり休山し、現在にいたっている。」と記されている。

 「日本地方鉱床誌 四国地方」にも、西条市荒川山の蛇紋岩にきわめて微量のニッケルを含むことや、含ニッケル珪質岩やドロマイトが三波川系に小規模に発達し、愛媛県土居、黒瀬、砥部などにおいて緑色の鉱石を認め、一部には針ニッケル鉱などの硫化物を含むことが記載され、高知市岡豊山のヒールズウッド鉱やアワロワ鉱とともに研究対象となっていた。

 ニッケルは、耐食性、熱伝導性、電気伝導性に優れ、なによりもステンレス鋼の材料であるため需要は極めて多く、今でこそ、大部分の鉱石を海外鉱山に頼っているが、いずれ国産に脚光を浴びる日が来るかもしれない。含有率は低いものの三波川帯の各種岩石に普遍的に含まれるニッケル鉱石は、ある意味で無尽蔵の「宝の山」のひとつであると言えるだろう。

 さて、この標本の大きさは長径約40cm、大型標本として貫禄はまずまずであるが、色合い的には濃淡があっていまひとつである。「えひめ翡翠」というには、もう少し輝緑色の眼の醒めるような色彩がほしいところなのだが、それでも小生が気に入っている理由は、鉱山稼行時に採取されたことを示す削岩機の跡が生々しく残っている点にある。その意味で、これも往年の黒瀬鉱山を偲ぶ歴史の証人ということが出来るだろう。今、現地に行って、これだけの標本が採集できるかどうかは不明である。ちなみに、この特徴的な緑色はニッケル自身に依るものとばかり思っていたが、皆川先生によると微量に含まれるクロムの発色だということである。(「四国産鉱物種」 皆川鉄雄 2008年1月)

 案外、地域的にはよく眼に付く鉱物で、小さなものならそう苦労しないでも充分に採集可能なので、一日、のんびりと静かな沢に入って、さまざまな色合いの「えひめ翡翠」を集め、愛媛の銘石標本箱を作ってみるのも、なかなか味わいがあって面白いものである。

 

LIN_005

   back