鉄礬ザクロ石(香川県坂出市)

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 鉄礬ザクロ石は、宇摩郡土居町五良津産鉱物の定番ではあるが、結晶片岩帯に限らず、その産出地は極めて多い。砂岩などの堆積岩のホルンフェルスに含まれたり、花崗岩ペグマタイトや安山岩の構成成分をなす場合もある。また、変わったところでは土居町関川の河口や香川県多度津町の海岸で、流れてきたザクロ石が洗い出されて「金剛砂」と呼ばれる砂鉱を呈する場所もある。

 さて、このザクロ石は、香川県坂出市川津町の「黒岩天神」で皆川先生が採集されたものである。その辺のいきさつは、「愛媛石の会会誌 第8号」(2003年1月 発行)で小生が駄文に綴っているのだが、ここに改めて紹介したいと思う。黒岩天神のザクロ石は昔から知られていて、これを拾うと、頭が良くなるという言い伝えもあって、学問のお守りにこれを目的に遠方より参拝する人も多かったという。香川師範学校の浦上仁一先生が中心に編集された「香川県地質概説」(香川師範学校郷土研究部編 昭和7年発行)には、「V.柘榴石 安山岩の副合分たりしものが風化の結果洗ひ出されたもので時に良品を見るも多くはヤマモモの実状となったもので結晶面の判然たるものは少ない。綾歌郡川津村黒岩天神付近のものは径1.5cmに達する斜方十二面体で、他のものは多くは偏菱形二十四面体である。主な産地は 三豊弥谷寺付近、仲多度郡雨霞山(雨霧山の誤りか?)、綾歌郡黒岩天神、高松市摺鉢谷、大川郡雨瀧山、火山等である。」とある。

 また、インターネットでここのザクロ石を紹介している文章が、教師の傍ら、この方面の卓越した研究と珠玉の名文で知られる「伊達 伍先生の遺文集」に載せられているので、ここにその一部を掲載させていただく。「・・ところで、良質といえば讃岐でも坂出の川津町・・・そこからは比較的結晶の美しいものが出た。川津の郷獅山(ゴジヤマ)円錐形で城山につづいた山である。その西麓・・黒岩天神の境内付近から採集されたのがそれで、斜方十二面体、径は1.5センチ程のものだ。しかし、これとて先ず良品の部類と云う所で、透明度は足らない。川津の旧家、山口弥右衛門寄贈のザクロ石が、今も坂出の鎌田郷土博物館に蔵されている。川津の産地、郷獅山も集塊岩、凝灰岩、角礫凝灰岩の円頂丘で風化の結果洗い出されたものである。(新香川 74年8月号より)」「・・天神のある黒岩は地質学的にいえば、火山噴出物が火山灰で凝固したいわゆる凝灰岩で、ぼろぼろにはげやすい性質をもっていて、ときにその中から八角形の結晶をもったざくろ石・金剛砂が発見されることがある。風化した境内の土の中から、たまたまそれが拾えるので土地の人はそれを珍重がって“八角石”だと呼んでいる。しかしそれも今は少なくなって容易には見当たらない。(教育香川 66年6月号より)」

 

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                                      (左写真の中心よりやや上側が鳥居の位置にあたる。)

 

 以前から気になっている産地ではあったが、忙しさにかまけてなかなか訪れる機会もなかった。ところが、2002年5月20日、日本で稀少なボーキサイト鉱床である坂出市金山を「愛媛石の会」巡検で小生が幹事を務めることとなり、ついでに2番目の鉱物産地として近くの黒岩天神を訪ねることとなった。ちなみに、上の写真は今から35年ほど前の黒岩天神の景観である。この頃は郷獅山の中腹の美しい松の疎林に神社が鎮座ましまし、参道にも裸地が拡がっていて、ザクロ石の採集も比較的容易ではなかったかと思われるのだが、今は松もすっかり枯れてしまって照葉樹の鬱蒼とした林となり、神社も改修が進んで裸地にも若い梅の木が植栽されて昔日の面影はない。付近も住宅が建ち並んで油断すると道に迷ってしまうほどの変貌ぶりである。到着はしたものの採集などは絶望的とも思われて、会員の方にも「ここのザクロ石は、菅原道真公の“忘れ玉”とも称されて、拾うと頭が良くなると言われています。近くにある角山山麓の西山八幡宮の境内からもザクロ石が採集できて、中川三郎さんの書かれた「坂出・宇多津の民話史話」という本には、小学生の学童達がそれを毛筆の筒の中に入れて、カラカラと音をさせると習字や頭が良くなる、とも書かれています。ぜひ採集していただきたかったのですが、この状態ではちょっと無理かもしれません。申し訳ありません。」などと長々言い訳をしていると、傍らにいた皆川先生がおもむろに山のほうに消え、皆で待つことしばし、戻ってきた先生の手の中には、なんと、このザクロ石がしっかりと握られていたのであった。・・スゴい、スゴすぎるぞ、皆川先生!・・小生は恥ずかしいくらいの大声を挙げながら、みごとな等軸十二面体を為す菅公ゆかりの黒岩名物“八角石”を初めて見る感動とも相まって、こころから先生に感服したのであった。その上、先生が惜しげもなく、それを小生に呉れたのには本当に天にも昇る気持ちがして、「先生はきっと、もっともっと頭が良くなりますよ!いったい、どうするのですか!!・・しかし、もらった小生にはそんな御利益はないでしょうね。」と、他の会員の顰蹙を買うのも気にせずに大はしゃぎをしてしまったのは、今も実に恥ずかしい思い出のひとつである。しかし、先生は、そんなザクロ石や騒ぐ小生など気にも留めず、梅酒にするといいながら、あたりのたわわに実った天神様の青梅を無心で収穫されていて、小生とは対極的なその静かな孤高の姿がとても印象に残っている。

 

 黒岩天神は、仁和4年(888年)に讃岐国司であった菅原道真公が、城山に雨を祈った後、山から下りついた場所に後年、社殿を建てたのが始まりと伝えられる。全讃史にも「土人云ふ、請雨天神是なり。」と記されている。菅公が下り居た場所であるから、付近の地名を「折居(おりい)」と呼ぶようになったそうである。全国に天満宮多しといえども、伝説とはいえ、実際に菅公の事績が由来として語り継がれるこの神社は、決して“日本三大天神”にも劣らない名社であると、地元の贔屓目ながらいつも誇りに思っている次第。したがって、小生も高校受験、大学受験と、霊験あらたかなこの黒岩天神にお参りをした。実は上の写真は、高校受験の折りに小生が撮影したもので、先日の巡検は実に30年ぶりの訪問であった訳である。高校受験はなんとか願いを叶えてくれたが、大学受験は残念ながら第一志望の願いを聞き入れてはくれなかった。まあ、「めでたさも中くらいなり・・」どの心境というべきか!?・・別に天神様を憾む訳ではなく、そんな迷信なども余り信じる方ではないのだが、それでもあのとき、もしザクロ石のことをすでに知っていて、境内でこのようなザクロ石を見つけていたら、あるいはその後、全く異なった道を歩んでいたかもしれないと、35年経った今でも、折に触れてふと思いを巡らすことがあるのである。

 

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