亡き人のための鉱物追想

 

 

田邊一郎* 

 


 言い古された成句に「一期一会」という茶道の言葉がある。人間の出会いというものは何時何処で断ち切られるかもしれないから今の出会いに最大の努力をせよ、ということである。それはよくわかるのだが、今、一緒にいる人が明日にはいなくなってしまうなど、神ならぬ身の誰が知り得るというのであろうか?・・そうしていつの間にか、人が過ぎ去った後で、痛惜の情を以ってしみじみと噛みしめる後悔の繰り返しこそが、逆説的なこの言葉の本当の意味なのである。

私の拙い鉱物趣味歴においても、いままで忘れることの出来ない「一期一会」とも言うべき方々が幾人かはおられる。その思い出を、このような会誌に書くことは、少々場違いのようにも思えるのだが、あえて他山の石としていただければ幸いである。

 

  M高校の高橋先生

この方は、私の高校時代の地学専任教師である。特に学級担任という訳ではなく、クラブの担当でもなかったので、後年に、何かの機会でお会いしたとしても、私など、先生の記憶の片鱗にもなかっただろう。

私自身も地学を選択したものの、当時は興味がある分野でもなく成績もさして良くはなかったのだが、先生は授業の余談に、よく別子銅山や四国の鉱物についてのお話を聞かせてくれた。愛媛の赤石山という場所には、ダイヤモンドが含まれていてもおかしくない岩があるとか、巨大なガーネットの入った石がいくらでも採集できるなど、いかに地学に興味がない生徒でも、自分たちの四国からそんな宝石が出るのか!と新鮮な驚きで目を輝かせて聞き入ったものだ。

 先生の別子銅山のお話は特に面白かった。先生は、旧制新居浜工専(現 愛媛大学工学部)採鉱科のご出身だったので、ことさら思い入れが深かったのだろう。鉱山の中には何百メートルものエレベータ(ゲージ)があるとか鉱石はベルトコンベアで運び出し四阪島で精錬されているなどの話題は、私にとっても夢の国のようでこの目で一度見てみたいものだといつも思っていた。その中でも次の話は、先生の力強いお声とともに、今も耳の奥に印象深く残っている。

「別子の坑口(おそらく第四通洞のことであろう)を34kmも入った場所に、非常に広く大きな空洞がある(役局のことであろう)。地下水も湧き出ていて岩盤も堅くとても安全なところだ。将来、もし核戦争が起こった場合には、君たちは迷わずここに避難しなさい。おまけに真上の山頂まで1500m近くもあるので、たとえ中性子爆弾が近くで炸裂したとしても大丈夫だろう・・・四国で安全な場所はここだけだ。迷わずここに来なさい。・・」と。

 先生からこれを聞いたのは昭和48年。 別子閉山からわずか1年しか経っていない状況だったので、当時であれば充分、使用も可能であっただろうが、それから40年も経って今はどのようになっているのであろうか?おそらく至るところ岩盤が崩れ落ちて、そこまで辿り着くこともできないかもしれないし、仮に辿り着いたとしても、核戦争の影響が消え去るまで、食料もないそんな暗闇の中で生き長らえることなど果たして出来るのだろうか?・・しかし、まあ、それは“大人”の考えである。当時は、それが充分出来そうな気がして、ぜひ下見にいかなければならないとの抑えがたい衝動が私の心を虜にした。おまけに「日本沈没」という大パニック映画を見た後だっただけに、その思いに拍車がかかった。

 当時、私には小学1年から幼な馴染みの、付き合っている彼女がいた。映画の“藤岡弘”と“いしだあゆみ”よろしく、核戦争が起こる前に、親には内緒でぜひこの目でシェルター?を確認しておこうということに話は決まった。決行の朝、二人はリュックにお菓子や懐中電灯を詰め込んで駆け落ちさながらに坂出駅に向かった。なけなしの小遣いで新居浜までの切符を買おうとした刹那、追いかけてきた二人の母親にとっ捕まりあえなく御用となった次第。心配になった彼女が土壇場で裏切って私の母親に電話でチクッたからだ・・日曜日だったので双方の父親も加わって散々に説教された。そのうち、先生がそうも言われるのなら今度は、家族揃ってその空洞を見に行こうではないかと話も纏まり、めでたく一件落着した。

 そんな彼女とも卒業後已むなき理由で別れ、両家で別子を訪問する機会は遂に訪れることもなかったのだが、私がいまだ別子銅山にこれほど執着するのも、“モグラ”の異名をとる高橋先生の思い出と、悲しいほどあどけなかった彼女の面影が、今も陽炎のごとくそこに揺れているからに違いない。

 

亡き人1

(別子銅山の役局の様子 岩波写真文庫“銅山”より)

 

  「愛媛石の会」の広末さん

広末さんとは、2002年に私が入会してからのお付き合いだった。いつも奥様とご一緒で、その鴛鴦夫婦ぶりが会の雰囲気を和やかなものにしていた。しかし、奥様には鉱物の趣味などまったくなく、数年前に大病をされた広末さんの健康を気遣って渋々参加しているとのことだった。山野にはきれいな花が咲いているので、私はそちらの方が楽しみです、とも仰られていた。

最初にご一緒した採集会は香川県坂出市の金山だった。入会して間もない状態で私が採集案内をしたので、とても緊張したのをよく憶えている。金山は日本では数少ないボーキサイト鉱床で、戦時中に航空機用として、女学生達によって採掘された曰く付きの鉱山跡である。鉱石が分布しているのは、標高280mの山頂付近だけなので、そこまで歩いて上らなければならない。おまけに蒸し暑い梅雨の時期で、気負った割には意外と少ない参加者に少々拍子抜けしてしまったのも事実なのだが、皆川先生が参加されていたのでとても心強かった。

ボーキサイトは表土の中に石ころのように埋もれている。それをスコップや移植ゴテなどで掘り起こさなければならない。事前にそのことをアナウンスしていたのだが、広末さんは、なんと巨大なツルハシ持参であった。お体に大丈夫ですか?とお聴きしても、大丈夫!と一言いってどんどんと山道を登っていく。主人は言い出したら聞きませんので・・と奥様が済まなさそうに私に一礼された。山頂でも雨がそぼ降るぬかるみの中、一心にツルハシを振り上げておられる広末さんの姿は、とても頼もしく思ったし、私よりずっとお元気そうに見えて安心もしたのだった。

二回目は高知県の白滝鉱山巡検だった。会の巡検はいつも、現地集合、現地解散が通例なので集合時間を少し過ぎて到着したところ、広大な鉱山のズリで一心不乱に石を叩いている人がある、それが広末さんだった。さっそくズリを上っていくと、広末さんは満面の笑みを湛えて私に収穫の石を見せてくれた。それは立派な黄銅鉱の塊だった。白滝鉱山は機械選鉱の設備が完備していたので、ズリ場にもなかなか思ったほどいい鉱石は残っていない。半日、手が痺れるほど叩きまわっても収穫はたかが知れているのだが、広末さんの黄銅鉱は緑色片岩に金を注ぎ込んだような豪快な産状で深い黄金色に光り輝いていた。うわ〜、スゴいですね!と私が言うと、思ったよりいいものでした、と子供のようにはしゃぐやさしいお顔が今も思い出される。

その後も、弘法師鉱山や生野銀山にご一緒し、私の車に同乗されることも多かった。実は僕は女優の広末○子の叔父に当たるんですよ。いつも車に乗せてもらうので、今度、サインをもらってあげましょうと言われた。それは嬉しいですね、よろしくお願いします、と笑いながら多度津駅でお別れしたのが広末さんを見る最後となった。間もない平成1511月、喜和田鉱山巡検の前日の朝、お風呂の中で倒れているのを奥様に発見され、そのまま逝ってしまわれたのである。あんなにお元気であっただけに驚き以上に悲しみも深く、やはり人生は「一期一会」だな、と大きく思うとともに、広末○子のサインも、永久に幻となってしまったな、と小さく残念にも思ったのである。

 

亡き人2

(古宮鉱山にて 広末さん(中央)と奥様(右))

 

  S堂の十亀さん

私がお世話になった骨董屋のオヤジさんである。お名前が「アキヨシ」さんなので、通称「あー坊」と呼ばれていた。田舎では珍しく、いつもチョンと髷を結っている西条の名物男でもあった。

私が持っている別子の銅鉱石や市之川の輝安鉱は、この人の手を経たものが多い。私が輝安鉱に興味を持ち始めた頃、新居浜、西条あたりの骨董屋に片っ端から電話してようやくヒットしたのが、このS堂のあー坊だった。古い標本なら何本かあるよ。来てみるで?と電話の向こうの“河童”のように響く人懐っこい声が印象的で、一度会っただけで彼のファンとなった。

わしの知っとる人で銅鉱石をいっぱい持っとるのがおるんよ。頼んであげよわい、というので、あまり期待もせずに待っていたところ、それから連絡が来るわ来るわ・・あー坊が連絡してくるのは決まって、仕事が忙しい午前中。外来の途中で何回もかかってくるので、病院の交換手が不審がって、「またあの人からです。お断りしましょうか?」とご親切に忠告してくれる始末。あー坊の声が特徴的なので、いつの間にか彼女らのブラックリストにも挙がっていたのだろう。いえ、このまま繋いでください、と外来そっち除けでウキウキしながら受話器を取る私の罪も相当深いのだが・・

坑夫さんの秘蔵品だけあってその見事さには目を瞠るとともに、さすが骨董屋の恐るべき実力にも心から感服した次第。私のサイトにupしている別子の大型標本や吹寄せ、斑銅鉱などはほとんどが、この坑夫さんから譲っていただいたもの。さぞ足元を見られて吹っかけられたのでは、と詮索される諸兄もおられようが、・・そなな石持っとっても腹の足しにもならんじゃろ。ほしい人に譲ってうまい酒でも飲んだらどうで、てな具合に彼の独特の口調で攻められると、それもそうだなと納得してしまうのか、吹寄せでも一升の日本酒+α程度の値段で入手できたのはラッキーだったという他ない。お互いが喜んでくれたら、それでえんよ。わしも石で商売しとる訳やないきに、と言うのが、いつものあー坊の口癖だった。

私が埼玉に転勤してから、あー坊が病気をしたという噂を聞いて一度だけ、S堂を訪れたことがある。彼は相変わらず元気に店に座っていた。膵臓を手術したので、好きな酒だけは止めているということだった。またいい情報があったら、埼玉まで知らせてくださいとだけ言ってお別れしたのだが、それから間もなく、膵癌が原因で亡くなったとの知らせを受けた。私のほしがった“鉱物”をあれほど良心的に集めてくれたのだから、一度くらいは、今度はあー坊の“好物”で一献傾ける機会を設けるべきだったな、と今なお悔やんでも悔やみきれない。

 

  川田のタケちゃん

川田のタケちゃんは私の父の従兄弟に当たる人である。香川県満濃町で農業の傍ら銀行員をしていた。いつまで経っても童顔の残るジャニーズ系?の顔をしていたので、父よりは母のお気に入りで、「タケちゃん、タケちゃん」と来るたびにとても可愛がっていたそうな・・。タケちゃんには、父が死亡したときに大変お世話になった。私も30才になったばかりでまだ山口に居住し、母はショックのあまり、外出もできないような状態で、父の借金や実家の遺産問題、母の年金の手続きなど、何をどうして良いか訳もわからず母一人子一人で途方に暮れていた時に、タケちゃんが全部、手続きを代行してくれて事なきを得たのであった。

それから10年・・私も新居浜の病院勤務に落ち着き、登山や鉱物の趣味に勤しむようになった。母もようやく健康を取り戻し、気の合った仲間と旅行を楽しみ、プールや太極拳などにも通えるまでに回復した。

その頃、私はひょんなことから、満濃町の「猫山鉱山」の鉱山情報を得た。日本では珍しい珪線石鉱床で、これまた日本一の大きさを持つコランダムも産しているという。これは、一度、行って見なければ・・ということで久しぶりに、タケちゃんに連絡してみたのである。しばらくして分厚い手紙がタケちゃんから届いた。中には数枚の猫山鉱山の写真とともに、タケちゃんが調べてくれた内容が詳しく書かれていた。

あのあたりは、戦国時代に中院少将や長尾大隈守のお城があり、その埋蔵金伝説があって、珪線石の他に小判も出たと言われている。鉱山は丸亀市の藤井高校の理事長が鉱業権を持っていた時期がある。鉱山からは立派なトロッコ道をつけて鉱石を運び出し、トラックで丸亀まで運んで船積みしていた・・など、四国鉱山誌にも記されていない興味深い内容であった。いずれ現地を案内するので、一度こちらに来てほしいと強調して手紙は終わっていた。

さっそく私は、満濃町にタケちゃんを訪ねた。平成13年の晩秋だったと記憶する。タケちゃんを一目みて驚いたのは、随分と痩せたな、という印象とともに皮膚が黄色っぽく見えたことだ。話しながらよく見ると、確かに目の結膜も黄色く染まっている。黄疸だ?!・・ 尋ねない訳にもいかず訊くと、C型肝炎で最近は入退院を繰り返しているとのこと。父が亡くなった後、しばらく会ってなかったので、そんなことも知らなかった不義理を詫びるとともに、今日の鉱山訪問は寒くもあり遠慮したいと申し出たが、ぜひとも案内したいと先に車に乗り込んだ。

鉱山は猫山の西山麓に位置する。ため池を過ぎて緩斜面をゆるゆると登っていくと大きな無人の小屋があり、その裏手に坑口があるという。草が生い茂ってはいるが、さすがトロッコ道だけあって、道幅もしっかりしている。道から少し入った所に、ポッカリと坑道が口を開けていた。地元にこのような鉱山が残っているとは本当に新鮮な驚きであった。おもむろに付近に転がる転石を割ってみるのだが、その堅いこと堅いこと・・正規品の金槌の柄があっという間に折れてしまった。採集に熱中する余り、タケちゃんを置き去りにしてどれほど時間が経ったのであろうか?・・ちょっと寒くなったので先に帰らせてもらおう、と言う。私も引き上げようとすると、せっかく来たのだから、心ゆくまで採集せよ、とのことで、そのまま坑口の前で別れることになった。

最後に私を振り返って、「一郎君、本当によかったのう。」と、私と母の心に平安が戻ったことを祝福するかのように、穏やかに微笑んだ顔を今も忘れることができない。

それから間もなく、タケちゃんの訃報が飛び込んできた、死因はやはり肝臓癌であった。母と弔問に訪れると、タケちゃんの立派な背広姿の遺影が飾られていた。死期を悟って、亡くなる一ヶ月ほど前に自分で写真館に行って撮ったものという。合成写真ではないので、ことさらに凛々しく美しくタケちゃんはその中に納まっていた。近づいてよくお顔を拝すると、童顔の残る口元は、鉱山の前で別れたあの時のままに静かに微笑んでいた。「一郎君、本当によかったのう。」と再び私に語りかけるように・・

それを見て、止めどなく流れ落ちる涙を、私はどうすることもできなかったのである。

            (終わり)

「愛媛石の会会誌 第12号」(2011年1月 発行)より転載