斑銅鉱1(白滝鉱山)
高知県土佐郡大川村の「白滝鉱山」。別子、佐々連に次ぐ四国第3位の規模を有し、江戸時代初期から土佐藩により連綿と稼行されてきた。当時は「本川銅山」と総称し、本坑の「朝谷銅山」に加えて、旧寒風山トンネル付近の「黒滝銅山」、白滝南東部の「下川銅山」をも合わせて呼ばれていたようである。発見は元禄12年(1699年)というから別子開坑とほとんど同時とみてよい。四国に限らず日本の銅山が、この時期に集中して発見されたと伝えられるのは何か特別な背景があるのだろうか?興味深いことである。江戸期を通じて、本川銅山は細々と経営されていたが、事情は幕末に一変する。川之江の幕府天領に進駐した土佐軍が、四国の政治のみならず経済までもその掌中に収めたからである。このとき別子も開闢以来最大の危急存亡の秋を迎え、土佐藩 川田小一郎と対峙した広瀬宰平の息詰まる談判は今に語り継がれる大勝負である。推測ではあるが、激論になるにつれて川田は、別子接収、官有化の大きな拠り所として藩経営の「本川銅山」を引き合いに出したに違いない。幕府の御用商人でなくても銅山経営ぐらいはできる、と。実際、土佐藩は雄藩政策としてすでに「鉱山局」を設けて自国の殖産興業に努め、天領接収と同時に、その占領政策としても矢継ぎ早に独自の藩札、村札を発行して経済と人心の安定化に勤めたとされているが(土佐白瀧鉱山史の研究 進藤正信 著)、小生の所有する明治初年発行の「本川銅山 銅山札」もその一端を物語っているようである。「わしのところは銅山札でうまくやっておるぞ。お前の別子は、安い幕府米の調達も出来なくなって、さてどうするのかな?」と言わんばかりに・・・。
しかし、新政府も落ち着いてくると、富国強兵のため鉱工業の民営化が急速に促進され、本川銅山も川之江の窪田氏に払い下げとなった。別子も、広瀬の推し進める銅山改革によって次第に勢力を盛り返し、明治20年には遂に本川銅山を吸収することに成功した。20年前の苦難の道を思い起こして感慨深いものがあったであろう。ところが住友は明治29年に、あろう事か、この鉱山を未練もなくいとも簡単に手放してしまうのである。処分の報告書には「・・然ルニ同所ハ追年出銅ヲ減シ、将来望ヲ嘱スヘキ鉱山ニ之無ク、然モ同山アルガ為メ当別子鉱業ニ妨害ヲ与フルノ恐レナキヲ以テ、云々・・」と、売り払っても別に、別子のライバルとはなり得ない取るに足らない銅山とでも言わんばかりに、軽く取り扱っているのも大きな謎である。住友に見放された本川銅山は、しばらく持ち主を転々としたあと、大正8年に至って新進気鋭の久原鉱業(現 日本鉱業)がすべて買収。近代装備の充実とともに大富鉱帯の着床にも成功し、名も「白滝鉱山」と改称、同社有数の大鉱山、そして別子のライバル鉱山として一大隆盛を見るに至ったが、住友にとってはまさに千慮の一失ともいうべきもので、あとで何度も臍を噛んだことであろう・・
さてさて、前置きがとても長くなってしまったが、この標本はそんな白滝鉱山の斑銅鉱脈、いわゆるハネコミである。母岩に挟まれた細い鉱脈ながら、美しい紫色に輝く典型的な“紫蘇バク”は白滝ならではの豪快なおもむきがある。「四国鉱山誌」には、「ハネコミには、斑銅鉱が凝縮して輝銅鉱を伴い易い。一部では斑銅鉱中の割れ目に自然銀の産出が見られた。」とマニア垂涎の記述もなされている。白滝には今も広大なズリが残されているので、まだまだ超高品位鉱も採集できるかもしれない。この標本も「愛媛石の会」Y氏の採集品。採集に疲れ果てて座り込んだ目の前の石を何気なく割ると、この斑銅鉱脈が光り輝いていたという。気絶するばかりに驚き、また狂喜乱舞したと言うことである。かくのごとき貴重な鉱物を、“おすそ分け”にいとも簡単に分けてくれるY氏の太っ腹にも感服するが、それ以上に、そんな楽しい仲間と鉱物採集が出来ない自分の境遇をとても寂しく思いつつ、遙かな白滝に想いを馳せてみる今日この頃でもある。