名古の浜辺(磯浦) 

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“名勝 名古の浜辺”と呼ばれた磯浦辺りより、東方、御代島と新居浜精錬所の遠望である。

絵葉書は2枚連番となっていて、右端には、精錬所まで延々と続く長大な松原が続いている。

撮影年代は、遠く煙棚引く惣開精錬所の大煙突が写っているので少なくとも明治33年以降、

さりとて沖の御代島は未だ絶海の“孤島”であり、おそらく明治〜大正初期までの撮影だろう。

まず、かっての磯浦辺りの面影を写した絵葉書として、もっとも古い部類に属すると思われる。

天保年間に西條藩儒学 日野和煦が著した東予の代表的地誌である「稿本 西條誌」には、

「名古城(城を代にも作る) 海に沿い長く続き、松生い茂りて景地なり。松露名物と聞こゆ。

この辺昔塩浜あり。いつの頃よりか廃して、水田にひらく、名古城より西、磯浦の内に

雌(お)づらの磯、雄(め)づらの磯あり。この磯、潮退きたる時も、見ゆる事稀なり。

陸に、犬返り、一手茅、かやの谷、岩鍋等の地名あり。岩鍋より西は、船屋村なりといふ。」

とあり、波がひねもす澎湃と打ち寄せる、白砂青松の静かで平和な海岸であったことが偲ばれる。

しかし、惣開に明治21年、新居浜精錬所が建設されると、次第に様相を変えていくことになる。

明治33年頃には精錬所に続く砂浜の一部が埋め立てられ、私立惣開尋常高等小学校が作られた。

海に面する環境を活かした惣開小学校の賑やかな海水浴風景が絵葉書に残されている。(下写真)

 

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さらに面白いのは、桜井海岸と同じく、国産サウナとも言うべき「石風呂」が作られていたことで

時の鷲尾勘解治翁もこの石風呂の大ファンであったことが「黙翁 鷲尾勘解治」に記されている。

「石風呂礼賛の翁は、人々に向って“健康法は、石風呂で真赤になり、海水で皮膚を洗い、汐風に

当たることだ“と、石風呂の功徳を語るのであった。当時の石風呂は現在の住友機械裏の海岸で

昔の惣開小学校の西側にあった。石風呂の無い間は、つとめて日光浴をせられた。・・」と。

 

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              (大正期の惣開小学校。その西側、松林の右に、石風呂とおぼしき白い煙突が見える。)

 

そうした風景も彼が都市計画の一環として、浮遊選鉱の尾鉱を海岸埋め立てに使用する方針により

工都の発展とともにその礎となって急速に失われゆく運命にあった。戦後は、住友共電火力発電所、

住友アルミ精錬所、住友金属東予精錬所、住友ニッケル工場等が誘致され巨大工場群へと変貌を遂げ

また、昭和50年頃には、工場から出されるフッ素ガスが原因で農作物や健康被害が大問題に発展、

岩鍋の住人が集団移住するという悲劇的結末で、其処をふるさととする人々さえいなくなったという。

こうして昔を語る人も物も改まり、古名床しき名古の浜辺は永遠にその姿を消してしまったのである。

今は、片道2車線の広い湾岸道路が完成し、多くの車がかっての松原の上を轟音をたてて通り過ぎる。

 

 

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