新居浜第二火力発電所の景

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明治以降の別子銅山近代化に際し、もっとも重要視されたのが電気事業の創設と拡充である。

水力、火力両面からその歴史を紐解くと長い話になるが、ここでは火力を中心に話を進めよう。

最初に電力の灯が点ったのは、端出場火力発電所(打除)の竣工で明治35年5月の事であった。

下写真(左)、手前の“換気装置”と煙突のある建物がそれとされる。左後方に打除鉄橋も見える。

出力90kW、50Hzの小規模発電ではあったが、精錬所や石ヶ山丈の電気索道にも供給され

「初めて仰ぐ電灯の光芒は、R燿ただならぬものあり。」と「住友共電のあゆみ」には記されている。

その後、坑内電車、捲揚機、空気圧搾機、坑内排水用など電気重要の増大は止まるところを知らず

明治42年には惣開精錬所内の大煙突そばに出力1500kWの新居浜発電所が落成するに至った。

下右は重厚な煉瓦造り新居浜火力発電所の勇姿。続く端出場水力発電所とともに産銅の増産を支えた。

 

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                          (打除の端出場発電所(左)と惣開の新居浜火力発電所(右))

 

昭和に入ると、部門は「土佐吉野川水力電気株式会社」を経て「四国中央電力株式会社」へと独立する。

「住友」の名を冠する事を控えたのは、電気事業という高度の公益性を慮っての配慮であったと云われる。

だが、実質は新たに建設した8800kW高藪発電所を主力にした、住友のためだけの電力会社であった。

昭和8年当時、総電力量2万kWの供給能力があったが、昭和10年には早くも不足の懸念が生じてきた。

特にアルミニウム精錬が本格化すると、電力不足は深刻なものになると予想され、状況は逼迫してきた。

そこで総出力6万kWの四国最大の火力発電所として、菊本に新居浜第二火力発電所が計画されたのである。

昭和16年迄に3台の2万kW汽機発電機を完成、住友化学の軍需需要にも充分対応できるようになった。

冒頭の絵葉書は、冬枯れの新高橋から西方を望んだところ。右手に第二発電所の2本煙突が写っている。

力強く立ち上る発電所の黒煙は、戦時増産の頃を思わせるが、次第にシーレーンを失い敗色濃厚な日本は

ボーキサイトや石炭の供給も途絶し、昭和20年に入ると総電力需要は1万kWまで落ち込んでしまった。

さらに軍部による軍需第一の発電事業一元化のために、日本発送電会社に吸収合併される危機に曝されたが

昭和20年8月の終戦によって、辛うじてその窮状を脱し生き残ることができたのは、誠に奇跡的であった。

 

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戦後は財閥解体と電力会社再編による、複雑な紆余曲折の歴史を辿るがここでは省略することにしよう。

とにかく復興の波は“新生”住友の各会社にも押し寄せ、アルミニウム精錬の再開はそれに拍車をかけた。

第二発電所も公称6万kWとは言いながら、戦前の設備の不備から来る燃焼効率は2/3の能力しかなく

昭和28年までに大規模な性能回復工事を施した結果、ようやく計画通り6万kWの出力を確保できた。

改良に伴って煙突も4本となり、そそり立つその威容は「菊本の4本煙突」として長く市民に親しまれた。

左上は新居浜港における舟御幸と4本煙突の絵葉書。港を埋め尽くす晴れ着の華やかさも今は昔語りである。

右上は、昭和37年、新居浜市制25周年を記念した風景印。4本煙突と文化センターとの構図が印象的だ。

 

40年代になると、第二火力発電所の熱源は石炭から順次重油に変換され、老朽化した施設更新に合わせて

戦前の2本煙突は解体され、替わって鉄骨製3脚集合煙突が発電所傍らに派手な赤白の色とともに出現した。

ところが40年代後半に起こった石油危機は深刻な燃料不安を煽り、原料を再び石油から石炭へと転向させ

石油と石炭のハイブリッド型の新設発電所を菊本に計画するも、アルミニウム精錬の中止とともに延期、

電力事業に欠かせない主力産業の突然の消滅は、別子閉山と同じくらいの激震となって新居浜を襲ったが

平成に入ってようやく価格的にも技術的にも安定した石炭優位の電力供給を確立しつつ今日に至っている。

4本煙突も、昭和60年頃までには全て姿を消し、新設ボイラーのための瀟洒な高煙突に生まれ変わった。

 

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(2本になった旧煙突と新しい3脚集合煙突、昭和44年頃(左)、新設5号ボイラー完成時、平成12年頃(右))

 

以上のように、発電事業はその時代の政治的背景と経済状況に敏感に反応しながらその栄枯盛衰を繰り返し

ボイラーという高熱汽罐の物理的な経年劣化を免れ得ずして、常に新陳代謝の如く設備を更新し続けている。

惣開の大煙突や菊本の4本煙突も、役目を終えれば老兵の如く唯静かに消え去るのが宿命と言うものである。

しかし、菊本の4本煙突が未だに多くの人々のこころに淡い郷愁とともに宿り続けているのは何故だろう?

それは昭和時代を生きた人々の喜びや悲しみに、共に向かいあった“こころの友”だからではないだろうか?

東京北千住にあった発電所の“お化け煙突”も、取り壊された後、いつまでも人々に惜しまれ続けたという。

そして不死鳥の如く、東京スカイツリーにも“お化け煙突”の追憶が秘かに織り込まれたと言うのだが・・・

わが4本煙突も昭和人のメモリアルとして、なんらかの形で復活できればいいな、と祈らずにはいられない。

 

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(夕映えに煙を吐く3脚集合煙突の左にわずかに1本残る旧煙突。取り壊し寸前の昭和55年頃の光景。)

 

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