住友別子鉱業所事務所

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明治17年に、ルイ・ラロックの青写真に従って金子川河口の総右衛門新開に洋式製錬所が建設されて以来

旧別子の高橋製錬の設備を浜に降ろそうという機運が高まった。明治32年の大水害がそれに拍車をかけた。

それを象徴するように、別子開坑二百年にあたる明治23年、江戸時代から別子往還として活躍した口屋を

新居浜浦から惣開に移転、製錬所と合併し「新居浜分店」とした。近代的な鉱業所、惣開時代の幕開けである。

時の総理事 広瀬宰平はその気概を込めて、惣開の一角にひとつの碑を建立した。これが「惣開之記」である。

 

「伊予国別子鉱山の分店はもと新居浜本村にあり。嘉永年間其の店長を清水総右衛門といふ。課余好く釣遊を為す。

一日見る処あり、洲渚卑湿の地を開墾して四町七段三畝の良田を得たり。乃余に就きて其の名を需(もと)む。

余曰く求めずして名あり総右衛門新開是なりと、後約して総開といふ。且つ是地や南鉱山を負ひ、北海浜に望み

最も舟車に便なり。是を以て明治十六年熔鉱試験所を此に設け二十二年分店を此に移し開明の新機器を具へて

熔鉱改良の試験を為し遂に今日の好果を得たり。余本年別子山創業の二百年に際し復此に其の慶事を挙ぐ。

因て窃に謂へらく総開の二字は初め偶然に発すと雖も一は鉱山の全事業を統合するの兆をなし、

一は熔鉱の新機器の開成するの基と為す。然らば則総開の名果して偶然ならざるものあり。亦奇ならずや、

抑又総右衛門主家に尽すの誠心顕晦を以て変ぜず、是今日の良謀を遺したにあらざるなきを得むや。

                    明治二十三年五月皕年祭の日 住友家の総理従六位 広瀬宰平 記す」

 

文面から察すると総右衛門もまた住友人であり、惣開は開発も名付け親も住友と縁深き土地であったことがわかる。

碑は住友銀行の西側に建立されたが、大正6年に写真の事務所本館が新築された際、人夫が誤って毀してしまった。

仕方なく倉庫に放置されていたのを、別子開坑二百五十年祭の準備に惣開を訪れた伊庭六郎氏により再発見された。

氏はかの伊庭貞剛氏の子息であり、子供の頃慣れ親しんだ「惣開之碑」がないのを三村起一所長に尋ねたのであった。

六郎氏もまた父と同じく本社の重役であることから、さっそく鉱業所では碑を修復し、事務所本館前に再建となった。

昭和39年に事務所が西原町に移り、跡地が住友化学に譲渡されるに及んで、現在は旧住友銀行横に移築されている。

写真は「住友の風土」より転載の25年前の様子。今はさらに金属板で周囲を囲って前面もアクリル板で覆ってある。

碑文は一部が失われ、碑面全体に走る亀裂が余りにも痛々しいが、住友発展の原点として特に大切に保存されている。

    

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                                 (旧住友銀行横に移されるまでは住化正門の脇にあった。)

 

「惣開之碑」とともに在った事務所本館は、住友別子鉱山の象徴として巨大な木造建築がその威容を誇っていた。

外来者に対しては、背後の煉瓦造りの精錬所とは好対照な木造の柔らかさが住友らしい剛健さを伝えただろうし

傭人に対しては、旧別子山上の諸施設と同じ和洋折衷のデザインが安心感とある種の誇りを感じさせたであろう。

また労働組合にとっては、戦前戦後を通じてブルジョワジーの牙城として常に熾烈な戦いの場として存在し続けた。

煙害問題で周桑郡の農民が大挙して押し寄せたのも此処であったし、大正13年の労働争議の舞台も此処であった。

わずか2人の労働災害者を解雇したことに端を発した問題は、銅山全体を巻き込む大争議へと発展していった。

鷲尾勘解冶と組合員の一触即発の談判は、「住友別子鉱山労働運動の顛末」を始め多くの史書で熱く語られている。

「上下円融」を謳う鷲尾も、労働組合に対しては過酷なまでに妥協せず、最終的には組合解散にまで追い込んだ。

戦後、復活した「別子労働組合」は過去の“会稽の恥”を雪ぐべく、あくまでも組織的統一的に労働戦線を拡大し

自他共に認める最強の労働組合「別労」として賃金闘争は言うに及ばず、安保、三池闘争を戦い抜いたのであった。

閉山に当たってひとりの解雇者もなかったと豪語するのも、強大な組合の力を背景に交渉できたからこそであろう。

そんな人も力も、いったい何処に行ってしまったのであろうか彼らは何を戦い何を勝ち取ったのであろうか

碑以外に当時を偲ぶものは残っておらず、本館跡も住化プラントが建設されて一般の人は立ち入ることもできない。

住友人が築き、住友人が育み、そして住友人が戦ったこの聖地を、今は若い社員が何食わぬ顔で車で通り過ぎていく。

 

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                                (昭和30年代の春闘風景。背後に事務所本館が聳えている。)

 

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