惣開全景(その一)
高築一楼遺子孫
此楼宣与鉱山存
望煙不啻愛風致
欲報積年金石恩
大正時代の惣開全景である。広瀬宰平が本邸の望煙楼から望んだ溶鉱炉の煙もこのようなものだったろう。
右端に真新しい電練工場が写っているので、絵葉書の年代は大正8年から昭和初期にかけての景観だろう。
撮影地点は星越から土ヶ谷にかけての稜線で、この角度から写された惣開全景の絵葉書は珍しいと思われる。
御代島もまだ沖の孤島であり、長く伸びた名古の浜辺の松原と、長閑な田園風景が古き良き時代を偲ばせる。
当時、このあたりは「ヨーコロの町」と呼ばれ、ここで働く人々を「ヨーコロ行きさん」と称していた。
「・・町全体に響きわたるサイレンと、朝夕の職工の群れ。入江の向いに赤煉瓦の電気精錬工場があって、
入江ごしに、うぉ−んうぉ−んと一日中唸っている。電気精錬の岸壁には大阪定期の御代島丸が停泊していて、
入江の沖を、数珠つなぎの鉱石艀が汽船に曳かれて四阪島に出ていく。
入江道路に建てこむ本屋、薬屋、自転車屋、西洋洗濯屋・・・そこは、古めかしい新居浜の町とはちがって
なにかハイカラな雰囲気がある。料亭「泉寿亭」−住友接待館−の軒灯も見えていて
石畳の内庭はいつも打水がしてある。洋風建築の住友病院や、銀行があり、そのすぐ向こうの工場構内からは、
鉱石をおろす騒音にまじって、別子に引返す鉱石列車がかん高い汽笛を断続させる。・・」
真鍋鱗太郎氏の「別子銅山・瀬戸内海」の一節である。金融恐慌の時代と言うから昭和初期の暗い世相であるが
「ヨーコロの町に出てくる私は、外国へでもきたかのような気持ちの昂ぶりをおさえがたい。」と結んでいる。
新居浜の渡邊氏のご指摘によると、氏の御祖母様は「ヨコロ行きさん」と音を伸ばさずに言われたそうである。
「あんたはヨコロ行きさんかえ?ほんでどこのセイサクへ行きよるんぞえ?」という風に・・なかなか良い響きだ。
「セイサク」というのは、機械課が独立した新居浜製作所のことだが、工場はどこも「セイサク」だったそうだ。
目を閉じると、当時の惣開をまったく知らない小生でさえ、人々の喧騒や工場の唸り音がありありと蘇るようだ。
ここでは、これ以上の野暮な解説は止め、下に華やかなりし頃の「ヨーコロの町」の大体の位置を示すに留めよう。
原典は「別子鉱山鉄道略史」(別子銅山記念館)の挿図である。なお、米倉庫は相当早く廃止になったようである。