惣開駅
惣開町は住友の 鉱山会社そのほかに 肥料工場ある地にて 往来しげく賑はへり
こ々より起る汽車の路 惣開駅を離れつつ 南に遠く聳えたる 別子の山の峯高し
(別子鉱山鉄道唱歌より)
惣開駅は、住友別子鉱山下部鉄道の港側のターミナルステーションとして明治26年に開通した。
開通当初は1日平均鉱石運搬量98t、1日乗車人数96人程度のこじんまりとした鉱石専用路線で、
クラウス社製1号機関車2両(一説には3両)を用いて、貨車を14両程連結し1日5往復していた。
絵葉書を見ると、機関車の後ろには米か塩と思われる叺に入った生活物資を満載し、鉱車は空であるから
汽笛一声を発して、今まさに端出場に向かって出発進行しつつある雄姿を捉えた一枚であると思われる。
下写真は一部を拡大したもの。線路の脇で列車を見送っている日傘に晴れ着の女性2人は演出だろうか?
カラーであれば青空に真っ黒な機関車と晴れやかな着物の彩色が良く映えてさぞ美しかったことだろう。
「別子鉱山鉄道略史」(別子銅山記念館 昭和53年)の資料を見ると、1日乗車人数は昭和4年を境として
爆発的に増加しているのがわかる。昭和16年には5000人を越え、戦後には1日最高15000人を突破した。
これは下部鉄道を営業用として客車に利用したことによる。これも鷲尾勘解治の英断の賜物と伝えられている。
人員は従業員に止まらず家族や一般にまで開放したので、日曜日ともなると買い物列車の様相を呈したという。
また端出場や山根の学童も通学に利用でき、上級社員や裕福な家庭の子弟はこぞって惣開小学校へ通ったそうだ。
ダイヤも始発は惣開4:10、端出場5:07、終発は惣開19:30、端出場21:05で1時間に1本の往復だった。
端出場の人は、町まで“行きは良い良い”だが、つい飲みすぎたり映画を見過ぎたりして終発列車に間に合わず
給料後であればリッチにハイヤーで、給料前であれば同僚のトラックのお世話になることも多かったという。
左下は小生所有の当時の回数乗車券。右下は下部鉄道里程と運賃表。定期だと職員は2〜3割負担で乗車できた。
惣開―端出場間20銭を高いと見るかどうか?参考に昭和9年のコーヒー1杯が15銭、キャラメル1箱10銭也。
そうして次第に需要が高まってきた惣開駅も鉱石部門は、昭和11年に星越―新居浜港間が開通して分離された。
これにより四阪島に向かう上鉱はすべて新居浜港に向かい、住友化学で用いる低品位鉱のみが惣開駅に移送された。
客車利用も戦後のバス路線の充実とともに激減し、下部鉄道は昭和30年以降、再び鉱山専用鉄道に切り替えられた。
下写真は昭和30年頃の景観。写りは良くないが、惣開駅西側の四つ辻が現在の「(住友化学)工場正門前」である。
ここには下部鉄道の広い踏切があって、通勤にひしめく自転車や人の群れが有名で、当時の百科事典にも掲載された。
特に日和佐初太郎氏が撮影された「雪の朝」と題する小雪散る踏切の写真は、全関西写真展の特選に選ばれている。
30年代後半には合理化による鉱山縮小とトラック輸送への転換によって、37年をピークに鉱石運搬も下り坂となり、
鉱山を支えてきた路線も、昭和42年には惣開線、昭和52年には別子鉄道全体が廃止され、その栄光の歴史を閉じた。
つい最近までは、住友化学の長い塀に沿って軌道面が綺麗に残っていたが、現在は新しい塀が作られて見えなくなった。
塀の西端にごく一部だけ当時の面影を見ることができる。星越に向かう線路跡も花壇などになって道向かいに続いている。
星越から滝の宮、国道11号線までは遊歩道に整備されているが、上部は住宅用に切り売りされて辿ることは難しいという。
もはや過去の遺物で無用の長物とはいうものの、新居浜の発展を支えた鉄路跡を全線保存してほしかったと残念でならない。
小生は新居浜在住時に、安藤重雄さんという鉱山鉄道の機関士だった方と懇意にして戴いた。80歳のお爺ちゃんである。
安藤さんは「桜の独楽」という随筆集を出版されているが、中央でも表彰され、大学入試問題に使われるほどの名著である。
郷里の石鎚村の思い出話から太平洋戦争従軍記、機関士時代の逸話に至るまで、お人柄が滲み出ている名文で綴られている。
今回の「惣開駅」の項は一度、安藤さんにお会いして駅の様子や当時の賑わいをお聞きしてから書こうと思っていたのだが、
平成23年4月にお亡くなりになったと連絡を受けた。また一歩遅かったと切歯扼腕しつつ寂しさと悲しさを隠せないでいる。
別子の鉱石をお見せしたときのわが子を慈しむような優しい眼差しを思い出しながら、心からご冥福をお祈りする次第である。
(住友化学付近に残る下部鉄道跡。白い部分は坑水路)