嗚呼!別子大山不動尊

 

 別子銅山に祭祀されていた神仏は、大山積神に限ったことではない。一度、坑内に入ったらそのまま黄泉の旅路となるかもしれないという恐怖は、さまざまな神仏への信仰へと坑夫を駆り立てた。伊藤玉男先生の「明治の別子」(銅山峰ヒュッテ 昭和48年発行)によれば、坑口に大山祗命とともに、稲荷大明神と不動明王が祀られていたといい(金掘権利由来)、稲荷大明神は鍛冶工の神であるとともに樵夫の神であり、不動明王は大日如来の化身で、神力、仏力を兼ね悪魔退散の神であると説明されている。不動明王を祀る鉱山で最も有名なのは佐渡金山で、これは坑道の形があたかも不動尊の持つ宝剣の形に似ているという所から信仰を集めたらしいが、そうした中央の“流行り”が全国を渡り歩く“渡り切夫”などによって当地にももたらされたとも考えられる。江戸時代の別子山中には愛宕社、稲荷社、金比羅社、庚申堂などが散在しており、神仏のご加護にすがるより術のなかった当時の人々の切実な思いが伝わってくるようである。大正5年に旧別子を撤退した後はこうした小社の行方もわからなくなり、現在もなお御姿を拝することができるのは、会社が管理する大山積神社を除いてはおそらく円通寺の鉱石地蔵とこの別子大山不動尊だけであろう。ところが、これほど受難を被った仏様もないと思われるほどの仕打ちで、某企業から礫で追われる如く安住の地を放逐されてしまったのである。小生は平成26年夏、この“事件”の当事者であり被害者でもあるY氏から詳しい経緯をお伺いすることができた。今、新居浜は広瀬宰平没後100年忌で盛り上がり、新たに発見された「銅山略式志」で江戸期の別子銅山研究を深める端緒も拓かれたが、その陰で当時の銅山の人々の信仰を伝える貴重な文化財が新居浜から失われてしまったという信じがたい事実があったこともぜひ知って頂きたいと思いここに一文を認める次第である。

 

 当初、別子大山不動尊(以下、大山不動と略す)は、目出度町の東向かい、谷を夾んだ「縁起の端(はな)」の西斜面に鎮座していた。開坑時には歓喜坑入り口に“その名前の通り”大山積神とともに祀られていたのであろうが、大山積神社が“縁起の端”に遷座するのと時を同じくして大山不動も一段下がった木方の焼鉱吹所(床屋)の並ぶ賑やかな場所に移ったのではないかと推測される。今も大山不動のものと伝えられる石燈籠が登山道の傍らに残っている。笠石や火袋石は失われているが宮立形の竿石の部分が放置されており、「山村文化」(第14号 平成11年)には「文政七甲申九月 怱手代中」と刻まれていることが報告されている。“怱手代中”は“惣手代中”の誤字であろう。住友家には「別子銅山惣手代心得」という文書も残されているので、おそらく勘場を中心とした手代衆が寄進したものと考えられ、大山不動は坑夫のみならず、広く別子に住まう人々の信仰を集めていたことが窺われる。別子の不動明王信仰は、南光院快盛法印とも密接に関わっていて、法印が入山した元禄時代から坑夫の家では不動明王の軸を掛けて山の悪霊退散を願うのを常としていたという。ちなみに、文政7年は1824年で、旧別子山中に残る遺物の中でも最古の部類に属するのは特に注目すべきであろう。

 

     

「山村文化」の大山不動石燈籠写真           現在の石燈籠(曽我孝広氏提供)

 

 この頃のご本尊がどのようなものであったかはわからないが、現存する不動尊石像には、「文久□酉五月」「床屋稼人中」の文字が見え、文久年間で酉の歳は、文久元年(辛酉)だけなので、この像が1861年に建立されたと知ることができる。おそらくそれまでの木造?のご本尊が火事などの災害で失われ、文久元年に木方吹所(床屋)が中心になって再建されたのではないだろうか。それにしても「床屋稼人中」とはなんと心地よい美しい響きであろうか。荒くれた坑夫や吹所稼人の外見とはうらはらな純情さや敬虔さが滲み出ているようで、これこそ真の別子銅山の民衆遺産であると小生は思うのである。残念ながら、石像をコンクリートで固める際に10cmほどが埋まってしまい全文が判読できず、他の側面に名前を連ねる世話人も見えなくなっているのが惜しまれる(下写真)。

 

     

 

 如何にこの不動尊が民衆の信仰を集めていたかは、明治14年の別子鉱山写真帖の写真で見ることも可能だ。下写真右の大きなお堂が大山不動だというのである。「山村文化」(14号)で伊藤玉男氏は、「奥が本堂、手前が参拝所であろう。入り口がちょっとした広場になっていて、向かって右側に一基、左側に何基か燈籠のようなものが見える。」と書かれているが、これが燈籠かどうかはどんなに目を凝らしても確認することはできない。単なる人影のようにも見える。しかし、伊藤氏がご健在の頃は明治生まれの生粋の坑夫さんも何人もおられて(例えば松葉藤之助氏、明治24年生まれ)、そうした方々から日頃、情報を収集されていた筈だから、おそらくこれが大山不動本堂であることは間違いないだろう。別子山中としては実に大きな堂々とした建物で、近くの円通寺と比較しても遜色のない威容を保っている。なお、新居浜史談(第367号 2007年)で芥川三平氏は、「旧別子の小足谷疎水水道上部にあった」と述べているが、文久年間には小足谷集落は未だ形成されておらず、小足谷疎水の完成も明治になってからであるから、木方のある寛政谷と、疎水の坑口である寛政口を勘違いされたのではないかと小生は考えている。

 

      

(明治14年の別子鉱山写真帖「旧別子の面影」より。右は一部を拡大したもの)

 

 大正に入り、旧別子撤退とともに、大山積神社は東平の一の森に御遷座され、大山不動も大正7年7月16日に喜三谷に安置された。そのあたりの事情は前出の芥川論文に詳しいが、東平から喜三谷の道は大層淋しい所で、お菊女郎狸がしばしば出没して人々を悩ませたので、旧別子に放置されていた大山不動を此処にお遷ししたということである。「明治の別子」には、「井上初造、横井円次郎等、山内の顔役が発起人となり、時の坊ちゃん課長と言われた男爵家出の古市採鉱課長の協力を得て・・」ともあるので、住友の仏様として半ば公然とお移ししたことがわかる。それから昭和45年に至るまで、東平の人々の篤い崇敬を受け大切にされてきたことは言うまでもない。殊に毎年7月第一日曜日に行われるお不動さんのお祭りは盛大なもので、朝から夕方まで不動尊前の人並みは途切れることはなかったという。その様子を谷口光夫氏の「鉱児の昭和史 −東平編−」から抜き書きさせて頂くと、4,5日前から土俵作りや広場の清掃、本部席の設置や観覧席のゴザなどを敷き、また夜は倶楽部に有志が集まって福引きの景品作りやお守り札作りに余念がない。当日は大きな幟が喜三谷入り口に立てられて朝早くから太鼓の音が勇壮に鳴り響く。ご馳走作りは母親の役目で他集落の人もたくさん来るので、そのお接待の準備で大わらわだ。子供は着飾ってお不動さんにお参りをし、福引きをしてノートや鉛筆、お供え餅やお洗米をもらって上機嫌で、臨時の出店や露天もあって買い物や好きな遊びに熱中している。午後になると住友恒例の相撲大会が開催され、酩酊したオジサン連中がちょっかいを出したりして大変な賑わいとなる。夕方、太鼓の音が已むと三々五々家路を辿ってさしものお祭りも万事終了。夜は共同浴場で祭りの話に花が咲く・・といった具合であったらしい。また、伊藤宗寛氏の「文献で辿る清滝物語」によると、東平は石鎚信仰の盛んな所で、清滝権現の西森仁照師のお弟子さんも多く、そうした熱心に世話をする人々によって不動信仰が守られてきたのであろう。

 

(喜三谷の大山不動尊。「新居浜史談 第367号」より)

 

 さて、かく盛大を極めた東平時代も、昭和43年の東平坑休止とともに集落は消失して無人の域となり、大山積神社も新田に合祀されるに至った。大山不動も2年間山中に放置されていたが、伊東宗寛、伊藤大隆、小池天了、山下仁岳氏らの熱心な運動が身を結び、昭和45年11月30日、山根の大山積神社近くのエントツ山登山口に立派な社殿を建てて移転せられたのである。思えば江戸の昔から、大山不動は大山積神の随神の如く常にお側近くに侍りながら三遷し、別子に働く人々の安全を見守ってきたのであって、銅山閉山後も永くこの場所で子孫や市民の生活を見守っていただく筈であった。小生もマイントピア別子に向かう時などに不動尊の赤い幟が何本もはためいて参拝している人をよく見かけたものである。建物は本堂に隣接してお籠もり堂や手水舎、鎮守社、トイレなども完備されちょっとした寺院の伽藍であった。

 

     

(在りし日の別子大山不動院。今は影もない。)

 

 ところが、不幸なことに平成15年5月23日深夜、不審火からお籠もり堂の一部を焼いてしまう事件が発生した。本堂に類焼はなく、本尊も石像であるから無事だったのだが、この日を境に土地を所有する某企業から再三、立ち退きを要求されるようになる。すでにこの時、お世話をする人の多くが幽明境を異にしており、奉祭者の娘婿であるY氏に対して執拗に立ち退き要求が繰り返されたのであった。Y氏は特に大山不動尊を信奉していた訳ではなかったが、昔から大山積神社とともに在った仏様だから、ご本尊の石像だけでも大山積神社境内にお祭りして頂けないか粘り強く交渉したものの企業側は聞く耳を一切持たなかったという。それどころか不動院境内には石ひとつ残すことも許されなかったそうだ。困り果てたY氏は、取りあえずご本尊を自宅の庭に安置し要求通り全ての建造物を断腸の思いで撤去した。義父が熱心に信仰していたお不動様の建物や石碑が、瓦礫となって無残に毀されていくのを見て涙が流れて仕方がなかったという。小生も平成26年春に現地を訪れてみたが、ただ更地が拡がっているだけで、曾ての石段も石碑も手水鉢も何一つなく、ここにお堂があったことさえ思い浮かべることは困難で、慷慨嘆息しながらその地を足早に立ち去った次第。企業も安全性と山林火災を心配しての勘案だったとは思うが、別子の仏様に対しここまで過酷な要求をすること自体、すでに別子銅山の恩恵を忘れてしまっている現れだとも思っている。ぜひ、当時の当事者に経緯の説明を求めたいものである。

 

 ご本尊を粗末にしている事への自責に苦しむY氏に朗報がもたらされたのは平成21年、かって岡崎山麓にあった石鎚神社祭主で、今は土居町で活動する西川師が同地の石鎚神宮境内でお祭りすることを約束してくれたのである。かくして平成22年2月14日、新居浜での最後の月並み祭をおこない、別子大山不動尊は、縁深き新居浜の地を永久に去っていった。本当は別子の仏様だから新居浜でお祭りしたかったのだが・・お不動様も寂しがっておられるだろう、とY氏がその切ない心情を吐露された。今、大山不動尊は、土居町北野甲1599−1の石鎚神宮境内に在している(下写真)。大きなお不動様の傍らに鎮座しているので少しわかりにくいが、雨ざらしの上、小さく固まって少し目を伏せた表情は何となく悲しそうにも見える。ところが、当地に御遷座に際して次のような不思議な逸話をY氏が語ってくれた。西川師が、石像を堂内に安置しようとした所、お不動様が中に入ることを頑なに拒んだというのだ。「元々、私は外に祀られていたのだから庭に祀れ。」とのお告げがあったという。これほどの仕打ちを受けても猶、煩悩を抱えて迷う六道衆生のために雨露に打たれながら毅然と魔敵と戦う限りない慈悲のこころに触れて、小生は思わず目頭を熱くしたのである。

 

 

                           (本記事を書くに当たって、原 茂夫様から多大のご教示を受けました。心より感謝いたします。)