江戸時代中期、近江の翫石家、木内石亭が著した大著「雲根志」の中に”二十一種珍蔵”と呼ばれる一項目がある。その解説には「予、十一歳にして初て奇石を愛し今に三十年来、昼夜是を翫びて他事なし。此ために諸国へ通行する事凡三十余国、今求め集る処の石凡二千余品の中に二十一種の珍種あり。同志の人たづね来らは是を見すべし云々」とあり、石亭自慢の精選コレクションであったことがわかる。その三番目に「錫リン脂」がある。「色白く銀の光彩あり。数珠塊をなし材木を組みたるがごとし。甚だ奇品愛賞すべきもの也」とし、克明な図が描かれている。石亭亡き後、彼の膨大な標本は散逸してほとんど失われてしまったが、この”二十一種珍蔵”はその珍奇さゆえに奇跡的に伝世し、明治に入ってかの和田維四郎教授の蔵する所となった。後、他の膨大な”和田コレクション”とともに三菱財閥に移譲され、現在は兵庫県の「生野鉱物館」で一般に供覧されている。
昨年6月、実際に見てきたのが右側の写真である。鉱物館では、和田コレクションの国宝級の巨大な輝安鉱群に圧倒されて片隅に追いやられたようにひっそりと固まっていたが、見つけたときの感動は筆舌に尽くし難く、これが石亭の限りなく慈しんだ二十一種そのものか!!としばらくは無言でお互い見つめあった訳である・・・。雲根志に記されてから200有余年、洪水や売却、はては太平洋戦争の空襲など幾多の危機を乗り越えながら、やや角が取れてしまった印象は否めないが、よくぞ今まで無事で伝わってくれたものだ。寸分と違わぬ石亭の緻密な描画もさすがであるが、これも現物を見てこその感想である。これだけの貴重な”お宝”を惜しげもなく常設展示する三菱側の、鉱物に寄せる気概と哲学にも頭の下がる思いで、思わず目頭が熱くなるのを感じた・・・
さて、「雲根志」で「錫リン脂」と呼ぶこの鉱物自身は輝安鉱、それも「市之川」産であることは、まず間違いないだろう。石亭自身は「其産所いまだ詳ならず。元来松前の人、蝦夷の人に換得たる所なり。」と記するに止まっているのは実に残念である。当時、市之川鉱山は、細々ながらも曽我部家により採鉱が続けられていたはずで、せめて「伊予の産」と書いて欲しかったと思う。当時、採掘されたアンチモンが何に使われていたのか不明であるが、想像を逞しくすれば、新潟など北日本で多く製造されていた煙管などの錫製品に混じられていたのではないだろうか。実際、幕末、函館からの対米輸出品目にも煙管は多くの比率を占め、ロシアなど大陸との交易にも使用されたようだ。蝦夷人の煙管好きも有名である。市之川から、北前航路で蝦夷に流れた輝安鉱が、何らかの理由で石亭のもとに辿り着いたのかもしれない。あくまでも想像であるが・・・。当時の煙管の成分分析などを行ってみればまた面白いと思う。
ところが最近の益富寿之助先生らの研究で、「錫リン脂」と「輝安鉱」とは別物であることが明らかとなった(地学研究 vol.25 1974)。「本草綱目」という明の医学書には、「錫リン脂」はペルシャの銀鉱であると明記され、眼薬やてんかんの処方として用いられていることが述べられている。昭和初期、東大の脇水鐵五郎教授は、現在も硝酸銀が眼薬として有効であることを挙げ、「本草綱目」で「錫リン脂」が銀の項目に記されていることなども考慮して、「錫リン脂」が「角銀鉱(AgCl)」であることを突き止めたのだ。益富先生も、これを「襟を正すべき」卓見であると述べている。さらに享和3年(1803年)、小野蘭山が著した「本草綱目啓蒙」にも、「・・雲根志にも図を載す。これは別物にして名を仮るなり。錫の状石英の如くとがりて多く乱れ生ずる者なり。予州方言マテガラ。」と雲根志の誤りを看破していて、漢方の世界では当時から常識であったのかもしれない。予州では「マテガラ」と呼ばれているというのも重要な記載で、「マテ」は今でも輝安鉱の結晶のことである。小山蘭山は「雲根志」の標本が予州産の輝安鉱であることをすでに理解していたことになる。和田維四郎教授も日本鉱物誌で「錫リン脂」という名を使用せず「輝テイ鉱」(テイは金ヘンに弟と書く)としたのも、その辺の事情を知っていたからに違いない。にもかかわらず、最近の書物には、内外を問わず「錫リン脂」は「輝安鉱」なりとする見解がまだまだ多いのは遺憾である。
以上、ほとんど益富先生の論文の受け売りを長々と書いてしまったが、石亭が、たとえ間違った名前を書いたとしても、彼が残した偉大な足跡をなんら汚すものではない。和田維四郎教授は「雲根志」を評して「今日に於て参考となるべき材料極めて鮮(すく)なし」と手厳しいが、西洋の近代鉱物学を推進するために、旧来の弄石趣味を否定せざるを得ない心境は充分察することはできる。しかし、反面「二十一種珍蔵」をこよなく愛する偉大な愛石家であったこともまた事実である。200年以上前の輝安鉱が、木内石亭、和田維四郎という偉大な手に抱かれながら、形を損じることなく今日まで伝わっていることは、実に素晴らしいことで、四国人としてこの上ない歓びを感じるものである。