田中大祐翁のこと

 

 あの巨大で、槍の如く銀白色に光り輝く“市之川鉱山産”輝安鉱の魔力に取り付かれると、もう逃れることはできないとよく言われる。実際、小生のごときも例外ではなく、鉱物には四十の齢を過ぎるまで何の興味もなかったのだが、はじめて職場に置かれていた輝安鉱標本を見てからは、すっかりその虜となってしまった。そんな小生と同等にされては叱責の極みであるが、明治の頃、すでにその輝安鉱の魅力に取り付かれ、昼となく夜となく鉱山事務所に公然と現れては、美しい輝安鉱の結晶を貰い受けて行く一人の「花火師」がいた。名を「田中大祐(明治5年〜昭和31年)」という。自ら膨大な輝安鉱を収集し、現在、百十数種あるという輝安鉱の晶面のうち、18種は翁の発見という。また市之川の「毛状アンチモニー」の発見(明治24年)は学界に一大センセーションを巻き起こしたと伝えられる。さらに学界に輝安鉱標本を供給することにも熱心で、現在、日本はいうに及ばず、世界の大学や博物館に秘蔵される美しい結晶標本は、ほとんど翁の手を経たものである。その利害を度外視した翁の学究的態度は、かの脇水鉄五郎東京帝大教授に「四国の土地に行って、まず第一に敬意を表すべきは田中大祐先生である。」と言わしめるに至っている。

 

 こんな話が伝わっている。翁36歳の頃、そろそろ家のひとつでも建てようということになり、資金繰りのため自慢の輝安鉱標本を売ることとなった。京都で換金してまっすぐ西条に帰ればよいものを、ちょっと東京の鉱物収集家を尋ねたところが、そこで見た孔雀石の見事さに魅せられてしまい、すべての金をはたいてそれを買ってしまった。帰宅して事の次第を報告したところ、さすがの妻も、あまりの事にその場で泣き崩れたという。だが、鉱物“オタク”には「さも、ありなん。」と十分頷ける話ではある。ちなみに、その後も清貧に甘んじ、家を建てることは遂になかったということである。

 次の話が、小生は好きだ。翁は自分の収集物を大八車に乗せ、各地の学校を巡り歩く「移動博物館」をしばしば好んで行った。コバンザメやアルマジロの動物剥製や鉱物標本など、当時、なかなか見る機会もなかった子どもたちには、すこぶる好評で、村境まで一緒に大八車を押しながら「おじさん、また来てよう!」と共に別れを惜しんだという。「このことは実に身にしみて嬉しく、度々思い出しても愉快である。」と人々に語っていたということだ。教育の原点とも言うべき翁の姿をここに見ることができる。

 

 翁は趣味の鉱物収集に没頭したとはいえ、本来の「花火師」としての仕事をおろそかにしていた訳ではない。「花火大さん」の異名を取るほどの名人で独自の工夫を加え、大輪の「菊」や「桐」に咲く打ち上げ花火は、大正11年、松山沖での摂政宮(昭和天皇)の天覧の栄誉に浴している。その後、昭和25年、天皇として四国に行幸の折り、西条に御旅所が設けられることが決定したとき、「西条は田中大祐の住む所。」と側近に語られた、と「西条市誌」には記されている。その天皇陛下にも輝安鉱が献上されたと記録されている。東京の国立科学博物館の鉱物部門に常設展示されていた見事な結晶標本がそれではないかと考えているのだが、最近は姿を消してしまったようだ・・・何処にいったのだろう?・・・まあ、それはさておき、本業においてこれほどの名声を得、また趣味としての鉱物収集も不朽を後世に伝えるとは、「四国のシュリーマン」の名に恥じない偉人であると言うことができよう。

 

 翁は、その他にもさまざまな自然保護や文化財保護に奔走され、戦後も、鉱物収集に飽くなき努力を続ける一方で、自身の膨大な標本類を西条市に寄贈、「西条市立郷土博物館」の礎を築いた。昭和27年には県教育文化賞、昭和29年には藍綬褒章を下賜、昭和30年には「田中大祐翁小伝(秋山英一先生著)」(この稿も、ほとんど本書に依っている)が刊行され、名誉と名声に包まれて翌31年、多くの人々に惜しまれながらこの世を去った。そして奇しくも、市之川鉱山もその後を追うようにやがて終焉を迎えるのである。

 

 それから半世紀が過ぎ、市之川はほとんど無人の域となり、平成16年の台風災害がそれに拍車をかけた。町の若者に訊いても、その場所を満足に答えられないばかりか「市之川」の名前さえ知らないというのは些か情けない話だが、翁の手を経て世界中に散っていった輝安鉱の美しい輝きだけが、今も翁の熱いメッセージを秘めて、熱心に見つめる学者や若者の心に、万丈の気を吐き続けているのを素直に喜ばなければなるまい。

 

(西条市立郷土博物館の市之川鉱山コーナー)

中央の輝安鉱は、「世界重要鉱物標本」に指定されている。

左の写真は、昭和27年、高松宮殿下行啓の折りの写真。

殿下の御下問にお答えする、田中翁の姿が印象的である。