褐鉄鉱(露頭)
鉱山を発見するには、まず、その露頭を探し出さなければならない。近年の電気探鉱や、衛星などを用いた最新の技術の存在しない時代は、露頭が唯一の鉱山発見の手段であったに違いない。「別子銅山」の場合も、切上がり長兵衛による劇的な露頭発見は、今日でも語り草である。だいたい「山伏」なるものも、単に山野を駆けめぐっておのれの修行を行うだけでなく、鉱山発見を朝廷から命じられた産業プロジェクトの役目をしていたという説もある。『・・・金剛蔵王権現という仏教に存在しない仏は、「埋蔵する金属を支配する王」の意味が真言の山岳修験にあったと考えられる。山岳修験がその本拠を吉野・金峰山におき、「金剛蔵王権現」を祀る「金峰山」は鉱山である。修験道と金属は関係が深い。』(現代宗教研究 32号)。「鉱物は国の宝である。」とは、木下亀城先生の「原色鉱石図鑑」の冒頭の言葉であるが、古代より私たちの生活は鉱物の上にたっていると言うことができる。
佐々連鉱山は、口碑によれば元禄2年に「大阪屋源兵衛(源八?、吉兵衛?、久左右衛門?・・たぶん一人ではあるまい・・ここでは、仮に源兵衛とする)」により開坑されたと伝えられている。大阪屋は、江戸時代には泉屋(住友)のよきライバルであったようだ。「別子銅山」と峠を隔てて相対峙する「立川銅山」は大阪屋が請け負っていた。旧別子に残る「大阪屋敷」の地名も、大阪屋にちなむとも伝えられているが、立川銅山と別子銅山の合併した頃にはすでに没落したという。果たして今も大阪屋は存在するのだろうか??・・・それはともかく、400年の昔、別子より、さらに山深い佐々連の地で、露頭を発見した源兵衛の喜びはいかほどであったであろう・・・このヤケ(露頭)の標本を見ながら、過去に想いを馳せ、石の友と一献傾けるのも、また格別である。