キースラガー(浅川鉱山)
徳島県海部町海南町にあった浅川鉱山。海部市街より北に3kmばかりの浅川地区の西部、急峻な山間地帯にあった。徳島でもこのあたりになると、小生も厄除けの薬王寺や番外霊場の鯖大師参拝くらいしか行ったことはなく、浅川に至っては年老いた母と、20年ほど前に新四国曼荼羅霊場の江音寺にお参りした以外には立ち寄ったこともない。ましてやさらに山に向かって浅川鉱山方面を訪ねたことはないので些か羊頭狗肉の感がないではないが、少し興味のある小説に巡り会ったのでここに紹介することにしたい。
浅川鉱山は四国でも数少ない“四万十帯”に属する含銅硫化鉄鉱床で、母岩は結晶片岩ではなくチャートや頁岩、砂岩など後期白亜紀のギリヤーク統の地層に胚胎している。鉱床は扁平な芋状の一塊の鉱体で、走向方向に40m、上下方向に250mに及ぶ縦長の大鉱床である。「四国鉱山誌」によれば、沿革は古く、江戸時代の蜂須賀家の稼行まで遡るというが詳細は不明である。明治以降も鉱業権は転々としたが、昭和4年に至って平野某から三菱鉱業が買収し、大々的に採鉱と探鉱とを開始したが経営は思わしくなく、昭和8年に僅か3年半の操業で休山した。3年間で産出した精鉱量は1万トン余り、平均Cu品位は4〜5%、Sは30〜40%と記載されている。四万十帯のキースラガー鉱床のため、品位は別子や佐々連に比べるとすこぶる良好であるが、上下方向に非常に縦長の鉱床であるため、排水や換気に苦労したということである。四国鉱山誌調査時の昭和24年には、上部の1号坑口以下はすでに水没し詳細な調査は不能であったようだ。三菱鉱業時代には採掘された鉱石は手選され、浅川港までトラックで運ばれて香川県直島の三菱製錬所に送られた。平均従業員数は70名程度で四国では中規模の鉱山と言えよう。下の絵葉書は三菱稼行当時の鉱山の様子。多くの坑木が無造作に置かれ、一段高いところに立派な事務所風の建物が覗き、左下にはホッパー設備らしき漏斗も見えている。3年余りで精鉱1万トンの出鉱というのはとても良好な成績で、坑道内にも巻上機やコンプレッサーを整備して大々的に増産体制を整えたようだが、如何せん、一塊の単一鉱体だったためにあっという間に掘り尽くし、休山に追い込まれたのは残念としか言い様がない。
上写真の鉱石は、「浅川銅山 三菱鉱業所」と張り紙のある古い標本。おそらく稼行当時のものであろう。緻密なキースラガーで黄金色も濃く、数%以上の銅分を含む上鉱である。母岩が付いていないのが残念であるが、別子銅山のそれとはまたひと味違う趣きがあって面白い。上部鉱床は特に品位が高く、斑銅鉱や輝銅鉱も見られたと言うから今も現地に行けばそうした高品位鉱を採集できるかもしれない。またいつか訪れることのできる日を楽しみにしておこう。
(浅川鉱山の絵葉書。「浅川鉱山三菱経営ノ全景」と説明がある)
さて、香川県の生んだ戦前のプロレタリア作家に「黒島傳治」(1898〜1943)がいる。「二十四の瞳」で有名な壺井栄やその夫の繁治と同じ小豆島出身で同世代の作家ではあるが、結核に罹り45歳で夭折したこともあって彼らの陰に隠れて今ひとつ知名度は少ない。しかし、代表作の短編小説「二銭銅貨」は小生の高校の参考書にも載っており、一度読んだだけで彼の大ファンになった。当時の下層社会を鋭くえぐるその題材もさることながら、独特の荒削りの文章は何人をも引きつける強い魅力と力を持っており、”若気の至り”の小生もプロレタリアが何かもわからないままに、マルクスやエンゲルスの著作と同様、”はしか”のように高校の図書館で彼の作品を読みあさり、友人と遅くまで議論をしたものだ。また、そこで得た生半可な知識を家庭に持ち込んで夕飯時にたびたび父と激論し、漫画の”巨人の星”さながらに飯台をひっくり返して、泣く母を尻目に大喧嘩になったことも懐かしく思い出される。そういう父も当時は浅沼稲次郎を師と仰ぎ、酔えば「インターナショナル」を口ずさむほどの日教組地区連合の元書記長、なぜ小生の考えがわかってくれないのだろうと不思議に思ったものだ。・・「一粒の砂の千分の一の大きさは世界の大きさである」・・・傳治の言葉である。その意味を説明しろと言われれば困ってしまうのだが、何回も口ずさんで噛み締めば噛み締めるほど、その一言に秘められた深い真実が心の底から湧き上がってくる。今は五十の齢をとっくに過ぎ生温い安穏な生活に甘んじる小生も、この言葉を思うたびに「お前は本当の貧しさを知らない!」と厳しく諫める父の顔とともにチクリと心の片隅に微かな痛みを感じるのである・・・
ヤレヤレ・・とんだ思い出話になってしまったが、その黒島傳治の短編小説に「土鼠と落盤」というのがある。昭和4年10月の作というから傳治33歳頃の作品である。名前の通り、ある銅山の落盤事故を題材にしたもので、「青空文庫」のネット上にその全文が公開されている。鉱山主の下で働く坑夫の虐げられた生活と坑内に芽生える赤裸々な恋、そうした希望を打ち砕くように落盤事故がおこる。事故を内々に処理し穏便に済ませようとする経営者に対して坑夫の非難が巻き起こり、鉱山を訪れた検査官に直訴しようと試みるが、経営者に丸め込まれた検査官は坑内に入ることもなくそのまま去って行ってしまう、という内容だが、「三代目の横井何太郎が、M−鉱業株式会社へ鉱山を売り込み・・」という下りが何となく浅川鉱山を彷彿とさせるのである。昭和15年に発行された「最新 大日本鉱業史」(日本産業調査会)によると、中四国を管轄する大阪鉱山監督局管内で、三菱鉱業が所有する鉱山は、龍王鉱山、亀ヶ森鉱山、生野鉱山の3ヶ所しかなく、住友や日本鉱業に比べると格段に少ないことがわかる。大正6年に操業を開始した直島の大規模な製錬所で各地の中小鉱山からの買鉱を中心に銅製錬を行っていた方針もあり、三菱直轄の鉱山は意外と少ないのである。だからと言って、小説の銅山が浅川鉱山だという裏付けには全然ならないのだが・・。また、傳治の生家も貧しく島内の醤油工場などで働きながら学費を貯め早稲田大学予科に進学するが、途中、シベリアに看護兵として従軍するなど苦労を重ねている。彼の小説が認められるのは昭和に入ってからであるから、その間の何処で、鉱山関係の知識を得たかは明らかではないが、地元近くの鉱山や直島製錬所の関係者から”ネタ”を仕入れたとするのが最も考えやすいのではないだろうか?そうすると、やはり三菱直轄の浅川鉱山などは有力な候補として浮上してくるのである。残念ながら「黒島傳治全集」(筑摩書房 昭和45年)の作品解説を見ても、そうした経緯は何も書かれていないため、「土鼠と落盤」浅川銅山説は小生の一人よがりかもしれないし、おそらくそうに過ぎないのだろうが、これが浅川鉱山だと思いながら一読すると、また格別の味わいと印象で忘れ難い作品となるのも事実である。長い冬の夜の静寂、諸兄もこの小説を読みながら、今は絵葉書だけにその面影を残す、遠い”ヤマ”の世界に思いを馳せてみては如何だろうか?
(黒島傳治の肖像。同全集Uより)